ここまでの考察で「なぜ何も無いのではなく、何かがあるのか」という問いの答えはどうなるだろうか。
世界の有り様は、なんでもありの自由ではなく、制限事項があった。
「無は無である」から、世界は「無」であるか、完全な「有」であるかのどちらかの状態しか取りえない。
しかしここで、距離をおいて考えてみてほしい。
そもそも、世界が存在する以前に、制限があるのだ。
「無は無である」ということが、世界の有り様を指示している。
つまり、「無は無である」ということこそが、ゲームのプログラムのように世界の有り様を指示する真理なのである。
これはゲームで言えばプログラム、パソコンでいえばOSのBIOSに相当する。
また、ゲームのプログラムはもちろんゲームの一部であるし、パソコンのBIOSももちろんパソコンの一部だ。
つまり、世界における真理も、世界の一部なのである。
問いと答えは次のようになる。
問:「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」
答:「無は無であるという、真理はある」
これはゲームの武器や、お金などの具体的な存在が、なぜ存在するかを考えていたところ、先にゲームプログラムが存在するということを発見してしまったようなものだ。
原子や素粒子などが、なぜ存在するかはさっぱりわからない。しかし、「なぜ何も無いのではなく、何かがあるのか」に対しては、真理が答えになる。
真理は存在するのだ。
(次へ続く)
