先述の同一律であるが、実は、完全な理解を得られるものは、ほぼない。
例えば「有は有である」について説明する。
「有るということは、有るということである」というのは自明だ。
有るものは、有る。否定しようがない。
しかし、なぜ、完全に理解できないかといえば、我々人類は「存在」について知らないからだ。
「存在」が何なのか分かっていないので、「有る」といっても、何が「有る」のか、何をもって「有る」のか、さっぱり分からない。
「有は有である」
それは、その通りである。しかし、いったい「有」とはなんなのか?意味不明であるということで理解は終わる。
しかし、私が理解できる同一律が一つだけ存在した。
それは「無は無である」ということである。
「無は無である」ということは「何も無いということは、何も無い」という意味である。
ここで、先例と違うのは我々は「有」は理解できないが、「無」は理解できるということだ。
誤解無いように説明すると、無とは何も無いことであって「0」ではない。
「0」というより「null」といった方が伝わるだろうか。
ともかく、有ることは、存在が何なのか分からないので、語ることが出来ないが、無は無ければいいだけなので語ることが出来るのである。
「無は無である」ということは、一見、何も主張していない。
しかし、これこそが世界の在り方に大きく影響しているのだ。
(次へ続く)
