おじさん危篤の一報が入ったのは、お盆休みの始まろうという11日深夜のことだった。

今回のおじさんとは、父の兄のことだ。
すでにおじさんの4人の娘達は病院に呼び集められ、最期の時に備えているという。
さば父、母も病院へ向かった。
このおじさんはもう30年近くの間、寝たきりの状態だった。
さばをは当時子供だったので詳細はわからないが、
脳溢血か、脳出血かなにかで倒れ、数週間生死をさ迷ったのち、
意識は戻ったが、脳に酸素が行かなかった時間があったため全身に麻痺が残り、
喉に器具をつけたため、声も出せなくなってしまった。
おじさん家は、4人姉妹とおばさん、ちょくちょく泊まりに来ていた祖母が
6畳の部屋が2つあるだけのアパートで泣いたりわめいたりはしゃいだり・・・
それを甲高い声でたしなめる祖母とおばさんが更なる騒ぎを巻き起こす。
騒ぎが限界に近づくと、おじさんのどすの利いた一括、
泣いたりわめいてた女達はみな息を呑み、
狭い茶の間はその人口密集度に反して、シン・・・と静まり返るのだった。
4人家族でひっそり暮らしてたさばをには、目を見張る騒がしさと狭苦しさだったが、
それが大家族の醍醐味というものだったのだろう。
祖母もそれが好きで、わざわざおじさん家に泊まるほうを選んだんだろう、
度重なるさば家のオファーを断って。
そんな暖かい大家族も、おじさんの病気を機にばらばらになってしまった。
将来を悲観したのであろうおばさんは、おじさんの意識が戻る前に姿を消し、
残された4姉妹も、ほとんどが進学を諦め、
自立するため、別々の場所で生活を始めた。
そしておじさんは24時間介護の施設に収容された。
唯一の救いは、低酸素状態の後遺症で、おじさんの知能が大幅にダメージを受けたことだ。
ドクターの話では、3~4歳の幼児ぐらいしか残っていないだろうとのことだった。
確かに、宙を見つめるうつろな目つき、おみまいのマクドナルドを無表情でかぶりつく様、
なにより、寝返りをうたせたり、食事をさせようと介護の人が手足を取ると、
とたんに怯えた表情になり、今にも泣きそうになるんだ、もちろん声は出ないけど。
まさに病院で何をされるか不安でしょうがない子供みたいだった。
あの威厳に満ちていたおじさんが。
でも、お見舞いの別れ際、さよならの握手をするとその手はびっくりするほど力強く、
必ず”また来ます”というまで放してくれなかった。
そんなときのおじさんの表情は、以前のようにどっしりとして、
澄んだ瞳が、”よし!、また来いよ”と言っているようだった。
なんなんだろうね。
おじさんの入ってた施設は、お盆と正月はスタッフも休みを取るので、
状態の落ち着いた人はその間、家族が自宅で世話をしなければならない。
1週間ほどの間、4人姉妹がおじさんの食事、下の世話、定期的に痰の除去をしなければならないんだ。
さぞかし大変だろうなと思っていたが、
4人姉妹は協力し合い、時に反発しながら立派におじさんの介護をしていた。
”相談したり頼ったりすることはできないけど、親父が生きててくれるだけでいいんだ”
姉妹の一人は言ってた。
”だって、茶の間に家族が集まれる唯一のチャンスなんだよ”
なるほど・・・、
たまに遊びに行くと、成長した4姉妹とまだまだ元気な祖母、
そして茶の間の特等席に座椅子で固定されたおじさん。
その表情は、施設での魂の抜けたようなのとは大違い。
満ち足りて、安心して、ときに言い争う女達を叱責するような厳しい表情を見せることもあった。
そんなふうにしておじさんと4姉妹は年数日の家族水入らずを過ごしてきたが、
やがて祖母が亡くなり、おじさん自身も高齢のため体力が落ちてきて、
この数年は年二回の家族介護もなくなり、ずっと施設で過ごすようになっていた。
今年のお盆は久しぶりに4姉妹がその病床に集う機会となった。
そして周りの者が喪服や式場なんかの用意をしながら見守る中、
おじさんはお盆休みの時期を生き抜いたのだ。
これは、最期におじさんが疎遠になってた家族に召集をかけたってことなのかな。
そしてあの電話から今日で8日、
おじさんの様態は落ち着きを取り戻しつつある。