コンビチュニー演出 二期会主催
リヒャルト・シュトラウス歌劇「サロメ」
の仕事してました。
ツイッターやブログで大変話題になったプロダクションですが、
「音楽」(楽譜)自体はなにも変わらないのに、
演出家によるテキストの解釈次第で、こうも方向性が変わるものかと
身をもって体感した公演でした。
リヒャルト・シュトラウスの作品は好きなのですが
正直「サロメ」は私の中ではランキングが高いわけではなかった。
歌劇「サロメ」の公演前、いつも話題になるのは
ダンスの部分で歌手が「脱ぐか脱がないか」。
スポーツ新聞ネタになったこともあるほど。
でも、これは100年前の初演時から繰り返されてきたことであって、
観客のおじさま方を喜ばすネタ程度のもので
女の私にはどうでもいいものだった。
でもコンビチュニー演出の「サロメ」は違った。
ショッキングなカニバリズム、ネクロフィリア…舞台上は倒錯したアバンギャルドな表現満載。
唯一サロメを除いては。。そう、「脱ぐか脱がないか」どころじゃない。
大前提の立ち位置が逆転してるのだ。
狂っていくサロメを観客が覗き見するのではなく、サロメから周囲を見る視点で舞台が進んでいく。
コンビチュニーの逆転の発想は、サロメが"純潔と純粋な愛を求めている"さまにスポットを当てた。
(と、私は思う。)
テキストの読み方でこうも違うのかと驚きと感心、いろんな意味でショックでした。
読み飛ばしていた台詞がどんどん入ってくる。
「ソドムの娘」というフレーズがどれだけ大事だったか、とか、、
ヨカナーンの第一声「罪の杯を満たしている者はどこだ」…
キーワードはそこらじゅうにあったんだ。
どんなに舞台上が異常で混沌としていても、シェルターと赤いカーテンの向こうはソドムの街だと思えば、
聖書通りいずれヤハウェによって焼き尽くされ焦土と化すと思えば…恐ろしげな天使の羽音に安心したり。
それはすべて純潔と純粋な愛を求めるサロメを強調するためのもの。
今回の演出に関しては賛否激しくご意見があるけれど、
おもしろいじゃない、いろんな読み方、見方があるって。
これもアーティストの表現の一つ。
こんなに観た人に発言させたいと思わせる、何かを投げかけてる(私もその一人)
もっと日本のアートが自由に発信できて、成熟しますように!
私ももっといろんな解釈ができるような、柔軟な人間でありたいなぁ。
しかしこの仕事、正直とっても疲れました。
おそらく偏執狂的にまで緻密な音楽を作り出したリヒャルト・シュトラウスの崇高さに
日々エネルギーを吸い取れてました。
リヒャルト・シュトラウス、41歳の出世作に改めて脱帽。
そして日本で再演を企画し実現した、二期会の皆様の努力に拍手!