Facebookを始めてみた。

数年前からその存在は耳にしていた。アメリカ生まれの世界最大SNS。作った奴のドキュメンタリー映画もある程だ。実名登録が義務付られており、生年月日や出身校を入れる事で昔の友人と再び繋がる事が出来る。

気に食わん!全くもっていけすかない!

SNSには過去にも手を出した事はある。Twitterだ。一応大学を卒業している事もあって、知り合いはそれなりにいる。Twitterを始めてみると、それなりの知り合いから次々フォローされた。それなりの知り合いのフォローを無視するわけにもいかず、こちらもフォローし返したのだがこれが間違いだった。

「起きた」「今日寒過ぎ!」「渋谷で芸人の○○発見!俺以外誰も気付いてねーw」「バルス!」

そんなに知らない奴のどうでもいい呟きを見せられるのは苦痛だ。馬鹿な友人が言う。

「たかが呟きなんだからそんなに重く捉えなくていいんだよ」

嘘だ。口で呟くのと、頭に浮かんだ言葉を不特定多数の人々に見られる場所に指で打って投稿するのは全くの別物である。そこには、これを呟いた事でみんなにどう思われるか気になっている自意識が必ずある。タイムラインは一枚布で覆われた自意識の垂れ流しだ。そう思って見ると、もう苦痛で仕方が無い。更に苦痛なのが「リツイート」というシムテムだ。そんなに知らない奴が、もっと知らない奴の呟きをこちらに見せつけて来る。小学校の朝礼で、たいして興味のない校長が、もっと興味のない孔子の言葉を引用して訓話を垂れるあの退屈さを思い出した。

Twitterは三ヶ月で辞めた。

では、そんな俺が何故Facebookを始めたのかという事だが、それこそが俺のアガペーである。

Facebookに登録する事で、「友達かも?」という欄に昔の同級生達の名前が出て来る。当然向こうにも俺の名前が出ているはずなので、とりあえず俺が元気にしていると言う事を知らせる事が出来る。但し、こちらからお友達申請はしないし、仮に向こうからお友達申請が来ても無視すると決めている。それまで疎遠だったのだから、そこまでの相手なのだ。無理にFacebook上で繋がり、血の通わない上辺だけのやり取りをする事に何の意味も無い。そんな事はロボットにも出来る。たよりがないのは良い知らせと言うように、何処かに存在している事を知らせるだけで、後は干渉し合わないのが一番良いのだ。

俺は生きている事、そして少しのサービス精神で、まだ独身の一人暮らしである事を知らせるために、二年ぶりにめくった煎餅布団の下に生えていたキノコの画像をプロフィール画面に使った。

Facebookを始めて一週間、「いいね!」を押してくれる人は誰もいない。

少しだけ、寂しい。

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