静かな夜だった。


夜道を照らす街灯は等間隔に道の先々まで続き、
光がカーブを描く。
通りを走る車や対向から歩いてくる人は押し黙って
いるかのように音もなく目の前を過ぎ去っていった。

歩き出すと一瞬で湿度が肌に纏わりつき、
今にも雨が降り出しそうだったが、すぐにでも探さないと
二度と会えないような胸騒ぎがして
キュヒョンは傘を取りに戻るのを諦めた。

子供の頃、横断歩道の白いラインを出てしまったら
ゲームオーバーで、あの電柱まで、数歩で行けなかったら
今願っている夢は叶わないとか。
そんな根拠もない自分で作ったルールを作って
いた事を思い出した。
二度と会えないなんてありえないのに。

ソンミンに電話を掛けたが、
何の気配のない呼び出し音だけが夜に鳴り響く。

街灯に従い歩いて行くと、煌煌と光を放つコンビニが
見えてきた。店内へと入り一通り見回ったが、
案の定彼の姿はなかった。
視線を感じ振り返ると営業的な笑顔を顔に貼り付けている
店員が、キュヒョンをじっと見ていた。
あの時に話した店員だった。


「もしかして、メンバーさんお探しですか?」
(前と同じーー)

「そうです。誰か来ました?」
「ええ。ソンミンさんですけど、不安そうな顔を
していらして、、気になって話しかけようと思ったんですけど、
お客様が並んでいたので…」

(あの人、どんな顔して。店員が、かまいたくなる程なのか。)


「不安そう?ーーそうですか。どちらへ行ったかわかりますか?」
小さな苛つきが、発した声に乗る。
一瞬店員の顔が強張ったが、彼は鼻で笑うと、
元の営業的な表情に戻った。

「ーーどちらだったでしょうね、仕事をしていましたから。
あちらじゃないですか?」とさした方向は宿舎の方であった。

彼の顔に張り付く笑みに居心地の悪さを感じ、
店員を一瞥して店を出た。
言われるまま宿舎の方へと歩き出したが戻っているのであれば、
すれ違っているかもしれないし、今いるメンバーに聞いたほうが
二度手間にならずに済む。

無意識に強く力を入れて握りしめていた携帯で、
宿舎に今居る人物、イェソンに電話を掛けた。
「……どうした?」

起きたばかりの掠れた声が耳元で囁く。

「ごめん、ヒョン。ソンミニヒョンがいるかどうか
確認してもらえます?」
寝ているだろう彼を起こして申し訳ない気持ちはあったが、
気遣える程自分自身に余裕は無かった。

「はぁ?…なんで?」
「説明は後でしますから」
「…ったく、嫌だって言ってもどうせお前は聞かないからな。」
電話口から、大きなため息が聞こえた。

ゴソゴソと衣擦れの音と戸の開く音、足音の順に聞こる。

「いないぞ。んで、なんで」

ーツーツーツーーーー
説明は後からします。と心の中でイェソンへ語りかけた。


宿舎とは逆方向にある歩道を、早足で歩く。
公園への道を阻むように街灯が光が弱く感じる。
空を覆う雲が厚くなってきたのだろうか。

ヒョン、振り出し戻すつもりなわけ?
こうやって同じ事をさせて。
戻れるわけないのに。

公園の入り口のベンチには若いカップル座っており、
別れの時間を惜しむように互いを見つめ話していた。

芝生を裂く、粒の大きい砂の歩道に沿って歩く。
手にもつ携帯が震えて画面をみると、
ウニョクからの着信であった。
出るか迷ったが、自分から電話した事を思い出し
通話ボタンを押す。

「ごめん、さっき電話もらってたでしょ。どうした?」
電話口から聞こえるウニョクの周りの音がざわざわと煩かった。

「ミニヒョンが居なくて、電話したんだ」
「おれ、しらないよ。」

小さな丘を越えたベンチに男が一人座っている。

「あ!ヒョン居た」
ぼんやりとこちらを見ている気がする。

「ごめん、見つけた。」
「よかったな。もう電話してくんなよ」

砂の歩道の示すまっすぐな道から、彼の元へ向かう近道である
道無き夜露を含む芝生をがしがしと歩く。
靴底がしっとりと濡れた感覚を覚えた。


「うん、じゃあ夜遊びは程々にね。」

「は?シウォナと飲んでんだよ。」

「いいね、んじゃあありがとう。」
耳元にあった騒がしい音が消え、静かな夜が舞い戻って来た。

ソンミンの目の前まで、けだるげにゆっくりと歩き彼の顔を
見る。
ソンミンは驚いた顔で、キュヒョンを見ていた。
幽霊でも見ているかのように。
そして、口を小さく震わせている。

雲の隙間から、月が顔を出したとき
丸みのある頬から顎へとかけてキラリと何かが光った。

水滴?
雨は降っていない。
泣いてるの。
いや、彼が泣く筈ない。
そう、しかも年下である俺の前なんかで。

でも。雨は降っていない。

「ヒョン…もしかして泣いてる?」

キュヒョンは心底驚いた。
彼が泣く事は無いに等しかった。
頬に伝う雫に触れると、暖かいものが指先にしみ込む。
(これ、涙じゃん――)

それなのに、雨が降り出したとか言い訳をする。
もしかしたら、彼は本当に自分が泣いているのに
気付いていないのかもしれない。

濡れた瞳は薄赤く縁取られていた。
なんで泣いているかなんてしらない。とソンミンは言う。
泣きたいのはこっちのほうだ。

目覚めたら、あなたが居なくて。
どうにか探しあてたら当の本人はぼんやりと空を見上げていた。

さっきからソンミンの小さく開く唇が、
何か音を発そうと必死に震える。次から次へと頬に伝う涙。
夜空にある僅かな光をそこへ収集したかのように、
微光を放つ。
このまま、その瞳を見続けてしまったら神話のメデューサを
見てしまった者達の様に、囚われて動けなくなるに違いない。
視線から逸らせなくなってしまった動けなくなった
体とは対称に心臓は、跳ね上がる。
熱い血液が全身を駆け巡り正常な意識を朦朧とさせる。

この顔は、誰も見てはいけない。
誰も、この顔は。
神が見たら、早く天へと連れて行きたくなるに違いない。
例え、血を分けた兄弟であっても動けなくなるにきまってる。

固まる体を強い意志で動かし、見上げる彼の瞳を手で覆った。
この底なしに光を集める瞳を見てたら、
自分自身の形が壊れて行きそうだった。

「キュヒョナ…」
震える唇が、自分の名を呼ぶ。

「なに?」

「キュヒョナ、なんでここにきた?」

なんでって、あんたが。
「ヒョンが、いつのまにか居なくなってたから」
いつまでたっても戻ってこないから、探したんだ。

「何も言わずに居なくなるなんて…心配するよ。」

「だって、お前間違ってるんだもん。」
ソンミンは、自分の目元を覆うキュヒョンの手を掴み
視線を再びキュヒョンへと向けた。
掴んだ手は離さないまま、握られている。

「間違い…?」
キュヒョンは一瞬泣きそうな表情を浮かべた。

「なにが?ねえ、間違って男を好きになるの?
俺ね、おっさんにも、小さい女の子にも嫉妬なんてしない。
間違っていたって、怒っていたって男とセックスなんて
しないでしょ。欲求不満であっても、男なんかとーーー」
声が震える。

肩や、ソンミンから握られている手に雨がポツリポツリと
落ちてきた。
風が強く吹き上がり、互いの髪が風に揺られた。
キュヒョンはソンミンから視線をそらし、俯く。

しばらくの間があり、ソンミンがキュヒョンの手を
強く握ると顔を上げてくれたが風に吹かれて乱れた前髪が
キュヒョンの目を隠していた。

「僕だって、間違っても男となんてしない。
男となんて、やったことないし好きになった事もない。
…お前以外。」

「でも、僕はお前がずっと間違いをおかしたままで居て欲しい。
間違ってでもいいから触れてほしい。」

「…それって、ヒョン、それってーーー」

ソンミンはもう片方の手で、キュヒョンの目を隠す
重い前髪に優しく触れて髪を整えた。

ソンミンは、戸惑うキュヒョンの瞳をじっと見つめた。

「お前のことが、好きだよ。
だから、僕の事だけを見ていて欲しい。
僕のものだけになってほしい。」

それは、自分が彼に言いたかった言葉だった。

「ヒョン、ずるい。ずっと俺が言いたかったんだ。」

「キュヒョナ…」
キュヒョンは、握っていた手に力を入れると
ソンミンを引き寄せた。


ソンミンが、微笑むと潤んだ瞳から涙がこぼれ落ちた。
「ヒョン、日頃泣かないから涙の機能が壊れちゃってるよ。」
キュヒョンも、指で彼の涙を拭いながら微笑んだ。

彼らの距離がゆっくり近づき、二人の影は一つになった。

重なる視線は、もう逸らさない。
通じ合った前と後では、こうも違うものか。
触れているだけで、重なった部分が喜びを震えているようだ。

雲が、ちぎれて隙間から月が顔を出す。
小雨が止み、黒い雲は遠くへ歩んでいる。

白色の月が、愛しい夜を見守る。
夜が世間から二人を隠し、自由へと解き放つ。

たとえ夜が明けようと、二人は想いのままに。




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草影から二人が抱き合うのを確認した蛇は、
長い舌をチロリと泳がせた。
林檎を落とした場所は間違えていなかった。

あの二人は、これから始まるのだ。

安堵の息をしたつもりだったが、もう身体は人間ではなかったため、舌が再びチロリと出た。
濡れた地面は、この体には動きやすい。
音もなく進む事ができる。

「もうちょっと、二人で遊びたかったなあ」
本音が漏れ出る。


コンビニの制服が湿った地面に落ちている。
雨と泥を含んだ制服は、もう二度とあの明るい店内で着られることはないだろう。

蛇は、先ほどまで着ていた服を下敷きにするすると草を
掻き分け夜の闇へと消えていった。



林檎の誘惑(完)