見て回りたい

見て回りたい

　松下が三限目の講義を終えて部屋に戻っても、彼は帰ってきていなかった。駅で妹と上手く会えなかったのではないかと思い、心配になって連絡を取ろうと思った矢先、彼から携帯に電話がかかってきた。
『今、妹さんと一緒に北野異人館街にいます』
　彼の言葉に松下は驚いた。
『神戸の町は初めてで色々と見て回りたいとおっしゃっているので、このまま少し案内します』
「君は四限目に授業があるでしょう」
『休んだ分の講義は誰かにノートを見せてもらうようにします』
　彼は滅多なことで授業を休んだりしない。松下は『芳子と話をしたいので替わってください』と言い、携帯に妹を出させた。
『可愛い案内をつけてくれてありがとう。神戸って、思いのほか暑いわね』
　受話器越しの妹は上機嫌で、その浮かれた声を聞いているだけで腹が立った。
「僕が彼に頼んだのは君の迎えだけです。彼は四限目に授業があるんですよ」
　厳しい声で言い放つと、妹は黙り込んだ。ボソボソと受話器の向こうで話をしている気配はするが、何を言っているのかわからなかった。
『一限ぐらいいいって言ってくれてるわよ』
「とにかく、君のわがままに彼を付き合せるのはやめてください」
『先生』
　彼が電話口に出た。
『俺なら平気だし、せっかく出てきているのに一人にさせるのも可哀相ですよ。街のこともよくわからないようだし、適当に回ってきます』
「けれど…」
　妹も乗り気で、彼も承諾している。今さら大学に彼を呼び戻したところで、講義を聞くのも途中からになり、意味がない。松下は強引に呼び戻す理由も思いつかないまま、最終的に
『妹をお願いします』と渋々頼むような形で電話を切った。切ってからも、妹と一緒にいるはずの彼のことばかり考えてしまい、我慢しきれず携帯に手をかけて…寸前で呼び戻すことを思い止まった。あまりのしつこさに自分でもおかしいと気づいたからだ。
　椅子に腰掛けたまま、松下は頭を抱えた。そうして自分の中を巡る…嫉妬と理不尽な怒りにただひたすらに…耐えた。