胆大小心録 その108 | むかしのはなし

胆大小心録 その108

百八

翁(秋成)には三都に親友がいない。
江戸の大田直次郎(南畝)殿、
京の小沢芦庵、村瀬嘉右衛門は友人だが、善友では無い。

大田は初めは徒子組の同心だったが、学才が将軍に聞こえて、
湯島聖堂の講師の一人となった。
坂倉弾正殿に嫌われて、一度足利に流された。
弾正殿が退役した後に、また召抱えられ支配勘定になったという。

一年間の大阪出張の際に、
長崎の御用に出かけた時に、思いがけず出会い、意気投合した。
狂詩・狂歌の名人と言われているが下手である。
ただ漢文の才能があり、文筆業と平行して詩歌でも成功している。
戯れに自分に送った言葉に、
「わが国においてわが国の文をうまく書く者はいない。
扶桑拾遺集を見て知りなさい。
わが国で文を書く事に関して、
余斎(秋成)は一石の内の八斗(八割)の才を持つ。
残りの二斗は京阪に一斗四、五升があり、
江戸にはわずかに四、五升があるのみだ」とある。
それに答える、
「曹植と同じ八斗の才と評されたのは恐縮だ。
しかし八の数字だけを頂くのが相応しい。
自分は八合の枡に八杯程度の才だ。賞味六升四合といったところか。
残りの九斗あまりは他の誰かにある」と。

また長崎の出張に二度程出掛けた際にも、大阪に寄って対面した。
旅館に幕を張らせて、台付きの提灯を二基立て、
御目見(将軍に謁見できる身分)以上の格がある。
その頃(弟子の)昇道が(秋成の)歌文集を出版するという事を聞いて、
「後序を書かせろ」と言うので、長崎に行って書いてもらった。
その文は和漢共に詳細であった。過分ではあるが喜ばしい事だ。
この序は初めは昇道が村瀬に頼んだのだが、延び延びになって完成しないので、
こんな事になったのだ。
村瀬は大儒とはいえども、日本の事には疎いので、
もし完成していたとしても(大田には)劣っていた筈だ。
とにかく博識で無ければこううまくは行かなかっただろう。

大田蜀山子(南畝の号)は、今は将軍親衛の旗本に召されたそうだ。
武芸も達者な人だ。今年の六十歳の春に、
「六十の賀に出来の悪い歌や詩を集めるのが通例だが、
私はそんな事は求めません」
と呟いたそうだ。
出来の悪い歌を六十章、旧作も混ぜて書いて送ろうとしたが、
数えてみたら百六章あった。
そこでそれにこう書き添えた。
「三浦義明は百六歳で馬上に出て戦死したのだ。そなたも百六歳まで生きて、
蝦夷の陣(ロシアに対する北方防備の戦い)で見事に討ち死にしなさい」と。


大田南畝は随筆や詩歌で有名な人物で、
特に狂歌に関しては天明期に大ブームを引き起こした第一人者だそうです。

秋成とは年がいってからの友人で、
実際に会った回数も少なかったようですが、
色々と通じ合うところが多かったようです。

善友で無いだの狂歌が下手だのと言っているのは、
単なる悪ふざけでしょうね。

文中で特にわかりづらいのが八斗の才云々といったくだりです。
魏の曹操の子の曹植は詩の名手であり、
南北朝時代の詩人謝霊運が曹植を評し、
「天下の才を一石とすれば曹植は一人で八斗を得、自分は一斗、
古今全ての者が残りの一斗を用いる」と言ったそうです。
南畝はそれをもじったのでしょう。
ちなみに1石=10斗=100升=1000合なので、
秋成は自分はせいぜい6.4%に過ぎないと謙遜している事になります。

最後にでてくる三浦義明は平安時代の武将で、源氏方の人物です。
実際には89歳で戦死しており、
秋成は大雑把に高齢という意味で使ったようです。