胆大小心録 その21
二十一
田圃が変わって茶屋の株ができる。父茂助に聞いた話。
昔は三条の橋の上から祗園の八坂神社が見えたのだ。
三条橋から祗園までの道には松林が並び立ち、
鴨川の流れは奇麗で、芝居小屋が大和大路に多く立ち賑わっていた。
筵と縄で絡み付けてあり、
私は入って見たくも無かったのでさっさと通り過ぎたと言っていた。
この話は百年も前の話では無く、
今の真葛が原は、風の音より太鼓や三味線の音で騒がしく、
時雨が降っても振らなくても聞こえないほどうるさいところになった。
松虫の声は、弓遊びの音になり、昔の面影は全く無い。
池大雅が天下に鳴り響く大家になり、
ちょっと文字を書いただけの紙が途方も無い宝玉になった。
爺(秋成)が若い頃、お目にかかりに行ったところ、
ただ「はあはあ」と言って、頭を畳にすりつけ、座るところもない様子で、
書き損じを丘のように積み、墨はこぼれてガンジス川のようになっていた。
「(書画を)一枚頂けませんか?」
と言うと、
「あなたは堂島の人だとおっしゃられたな」
と言って、(堂島の沖仲仕をモデルとした)黒船忠右衛門を描いてくれた。
また、西国の侍が画を希望した時には、よくわからない物を描いて、
「これは野老(ヒゲのある山芋の類)を祝うものです」
と申した。
この頃、白川橋辺りの人が、
「大雅がお使いになった筆だ」
と、何でもかんでも大層に言う。
そして、
「(自分の)親たちは周平(大雅)様に味噌を持って行った。
『米はありますか』と聞いて、一、二升ずつ持っていく。
そして(大雅が)
『あなたのお陰で生活ができ、最近ようやく腕が上がったと言われるようになりました』
と(お礼代わりに)、寺に(親が死んだ際に)名号を書いて納めたのです」
と言う。
ある年の暮れに、
「年越しの準備はできましたか?」
と言って、弟子の五岳の為の服を進呈する。
妻の玉蘭と二人で、茶屋の行灯の模様を描いて、
一軒につき百文ずつのお礼を貰い、
「十貫文(約九千六百文)は無ければ新年は迎えられない」と言って、
また祇園町の芸子が煙草入れや扇を差し出して、
「良かったら描いて下さい」と言うと、
「はあ」と言って、何やらわからない物を描いてやるにもお礼が一枚につき百文ずつ。
ご馳走かどうかは知らないが、芋やら餅やらアワビやら牛肉やらを楽しみ、
「玉蘭さん、一杯飲まないか?」と、杯を持ちながら言うと、
玉蘭も猿のような顔をしているくせに、
書初めに玉蘭夫人などと気取った署名をしたりしている。
生前には礼をはずまなくても手に入ったのに、富豪の緩怠な者が、
「周平(大雅)に描かせた」といって、たった一枚で百疋(約千文)もの値をつける。
「一、 二枚無名(という署名)で描かせた」
と偉そうに言い、表装して
「元日に床にかけようか。めでたい絵だ」
と言う。
また、この先生(大雅)も、
双林寺の庭に大雅堂という所が出来ようとは思わなかっただろう。
何やら茶の方面で新風を立てて、
大勢いた弟子たちが、王義之の蘭亭を真似て、茶室を建てたのが大雅堂で、
それをもって、茶の湯の事は何も知らない大雅の追善供養を行い、
ない雅堂(雅気の無い所)となった。
今は、火が消えた(五条橋万里小路にある)塩釜よりも、
焼失した花の御所(室町時代の足利将軍家の邸宅)よりも寂れている。
また蕪村(知人の与謝蕪村)の絵は、非常に価値が高く、
俳諧仲間が絵までもを持ち上げて、
嶋原(京都の花街)の桔梗屋(遊女屋の名前)の亭主が、
たくさん描いてもらって、遊廓中の財宝も今は千金の価値がある。
が、桔梗屋は惜しんで手放さないので、得とは言えないものだ。
また契沖の筆跡を、近年鑑定書でも手に入ったのか、
長町の八百屋がたくさん持っていたのを、これは贋物だと目利き自慢をする。
芭蕉のものは百疋にもなる時代だ。
また、ある鑑定家に表装させて、見極める事無く田舎で高く売った。
それが真宗高田派の専修寺であり、
真宗の偉人の筆跡が北国から出てきたと騙して売っていた。
その鑑定家が言うには、
「人には言えないが、三条通りのどこかの集会所の者が上手く贋物を作る。
それには銀一両もかかるので、短冊や懐紙まで頼んではとても生活できない。」
また、大阪の松木淡々(芭蕉の孫弟子)の弟子に、
秀鏡という優れた弟子がいたらしい。
ある秋の月夜に淡々は独客の茶の湯を催し、
客の谷松屋という古道具屋が茶を立てて、それが済むと、
「その茶掛けを」とかけさせて、そして、
「谷松よ聞きなさい。師の直伝の奥義を今宵秀鏡に伝授するぞ。
三千人の弟子の中にもおぬしのような者はいない。
翁(芭蕉の事)の句は生涯の作の中でも秀逸なものだ」
と言って、伝授した後に、
「谷松よ。この句を書いたものがまた出てきたら、金十両で買い取るぞ」
と言っているのを聞いて、秀鏡の胸がざわざわと嬉しくなったものの、
これは(贋物を)押し付けられたようなものだ。
残念ながら、翌日谷松が金十両を持ち帰るのを見て、詐欺師めと思っただろう。
163条に及ぶ本作の中でも特に長い回の一つです。
細かい部分は言うまでもなく、大筋すら間違っていると思われます。
池大雅はこの時代の高名な文人画家であり、書家でもあります。
与謝蕪村や渡辺崋山と並ぶ大物ですね。
金銭に無頓着な人だったらしくて、世間体なども気にせず
妻の玉蘭と共にひたすら芸術活動を続けたそうです。
葛飾北斎と娘の栄を思わせる関係のようですね。
前回と同じく長すぎるので、後で分けるかも知れません。
田圃が変わって茶屋の株ができる。父茂助に聞いた話。
昔は三条の橋の上から祗園の八坂神社が見えたのだ。
三条橋から祗園までの道には松林が並び立ち、
鴨川の流れは奇麗で、芝居小屋が大和大路に多く立ち賑わっていた。
筵と縄で絡み付けてあり、
私は入って見たくも無かったのでさっさと通り過ぎたと言っていた。
この話は百年も前の話では無く、
今の真葛が原は、風の音より太鼓や三味線の音で騒がしく、
時雨が降っても振らなくても聞こえないほどうるさいところになった。
松虫の声は、弓遊びの音になり、昔の面影は全く無い。
池大雅が天下に鳴り響く大家になり、
ちょっと文字を書いただけの紙が途方も無い宝玉になった。
爺(秋成)が若い頃、お目にかかりに行ったところ、
ただ「はあはあ」と言って、頭を畳にすりつけ、座るところもない様子で、
書き損じを丘のように積み、墨はこぼれてガンジス川のようになっていた。
「(書画を)一枚頂けませんか?」
と言うと、
「あなたは堂島の人だとおっしゃられたな」
と言って、(堂島の沖仲仕をモデルとした)黒船忠右衛門を描いてくれた。
また、西国の侍が画を希望した時には、よくわからない物を描いて、
「これは野老(ヒゲのある山芋の類)を祝うものです」
と申した。
この頃、白川橋辺りの人が、
「大雅がお使いになった筆だ」
と、何でもかんでも大層に言う。
そして、
「(自分の)親たちは周平(大雅)様に味噌を持って行った。
『米はありますか』と聞いて、一、二升ずつ持っていく。
そして(大雅が)
『あなたのお陰で生活ができ、最近ようやく腕が上がったと言われるようになりました』
と(お礼代わりに)、寺に(親が死んだ際に)名号を書いて納めたのです」
と言う。
ある年の暮れに、
「年越しの準備はできましたか?」
と言って、弟子の五岳の為の服を進呈する。
妻の玉蘭と二人で、茶屋の行灯の模様を描いて、
一軒につき百文ずつのお礼を貰い、
「十貫文(約九千六百文)は無ければ新年は迎えられない」と言って、
また祇園町の芸子が煙草入れや扇を差し出して、
「良かったら描いて下さい」と言うと、
「はあ」と言って、何やらわからない物を描いてやるにもお礼が一枚につき百文ずつ。
ご馳走かどうかは知らないが、芋やら餅やらアワビやら牛肉やらを楽しみ、
「玉蘭さん、一杯飲まないか?」と、杯を持ちながら言うと、
玉蘭も猿のような顔をしているくせに、
書初めに玉蘭夫人などと気取った署名をしたりしている。
生前には礼をはずまなくても手に入ったのに、富豪の緩怠な者が、
「周平(大雅)に描かせた」といって、たった一枚で百疋(約千文)もの値をつける。
「一、 二枚無名(という署名)で描かせた」
と偉そうに言い、表装して
「元日に床にかけようか。めでたい絵だ」
と言う。
また、この先生(大雅)も、
双林寺の庭に大雅堂という所が出来ようとは思わなかっただろう。
何やら茶の方面で新風を立てて、
大勢いた弟子たちが、王義之の蘭亭を真似て、茶室を建てたのが大雅堂で、
それをもって、茶の湯の事は何も知らない大雅の追善供養を行い、
ない雅堂(雅気の無い所)となった。
今は、火が消えた(五条橋万里小路にある)塩釜よりも、
焼失した花の御所(室町時代の足利将軍家の邸宅)よりも寂れている。
また蕪村(知人の与謝蕪村)の絵は、非常に価値が高く、
俳諧仲間が絵までもを持ち上げて、
嶋原(京都の花街)の桔梗屋(遊女屋の名前)の亭主が、
たくさん描いてもらって、遊廓中の財宝も今は千金の価値がある。
が、桔梗屋は惜しんで手放さないので、得とは言えないものだ。
また契沖の筆跡を、近年鑑定書でも手に入ったのか、
長町の八百屋がたくさん持っていたのを、これは贋物だと目利き自慢をする。
芭蕉のものは百疋にもなる時代だ。
また、ある鑑定家に表装させて、見極める事無く田舎で高く売った。
それが真宗高田派の専修寺であり、
真宗の偉人の筆跡が北国から出てきたと騙して売っていた。
その鑑定家が言うには、
「人には言えないが、三条通りのどこかの集会所の者が上手く贋物を作る。
それには銀一両もかかるので、短冊や懐紙まで頼んではとても生活できない。」
また、大阪の松木淡々(芭蕉の孫弟子)の弟子に、
秀鏡という優れた弟子がいたらしい。
ある秋の月夜に淡々は独客の茶の湯を催し、
客の谷松屋という古道具屋が茶を立てて、それが済むと、
「その茶掛けを」とかけさせて、そして、
「谷松よ聞きなさい。師の直伝の奥義を今宵秀鏡に伝授するぞ。
三千人の弟子の中にもおぬしのような者はいない。
翁(芭蕉の事)の句は生涯の作の中でも秀逸なものだ」
と言って、伝授した後に、
「谷松よ。この句を書いたものがまた出てきたら、金十両で買い取るぞ」
と言っているのを聞いて、秀鏡の胸がざわざわと嬉しくなったものの、
これは(贋物を)押し付けられたようなものだ。
残念ながら、翌日谷松が金十両を持ち帰るのを見て、詐欺師めと思っただろう。
163条に及ぶ本作の中でも特に長い回の一つです。
細かい部分は言うまでもなく、大筋すら間違っていると思われます。
池大雅はこの時代の高名な文人画家であり、書家でもあります。
与謝蕪村や渡辺崋山と並ぶ大物ですね。
金銭に無頓着な人だったらしくて、世間体なども気にせず
妻の玉蘭と共にひたすら芸術活動を続けたそうです。
葛飾北斎と娘の栄を思わせる関係のようですね。
前回と同じく長すぎるので、後で分けるかも知れません。