今日も快晴の新潟です。



そんなわけで、クリティカル・シンキング("Critical thinking")についてです。


って、なに?日本語で何?もう、なんでもかんでも、カタカナで言っちゃって、ルー大柴かっ!?「後のフェスティバル(祭り)」かっ!?と思われた方、ごもっともなご意見です。


最近、ビジネス系記事とか読んでると、「モチベーション」やら「セルフエスティーム」やら、英語をカタカナ読みしただけかいっ!?ていう語彙がやたらと多くて辟易するものですが、「クリティカル・シンキング」は、日本語訳「批判的思考」がちょっとどうにも当てはまらないブツなんです。


だからといって、「クリティカル・シンキング("Critical sinking")」ってカタカナ発音をしてしまうと、「批判的沈み」っていう、とんでもない言葉になるので、要注意です。


「批判的思考」というと、大変やっかいなシロモノに聞こえますが、要は論理的思考力を養うために、仮説をたて、根拠を持って論証し、逆説などを用いながら検証するという思考形式のことで、いたって健全かつポジティブなスキルです。


なんで、そんな話をしているかというと、日本の教育とアメリカの教育の代表的な違いの一つはここかな、と。


アメリカでも、読解力はとても重要視されていて、日本の国語同様、英語を国語として学びます。日本同様、最初は簡単な読みから始まり、学年が上がるにつれて、文章を分析する練習に移ります。文中の具体的な箇所を用いて、文の内容を説明することを主題とし、状況や登場人物、表現の分析などを行っていきます。そこまでは同じかな。


その後のプロセスの具体的な違いはというと、逆意見を生徒に持たせるところでしょうか。例えば、ある生徒を指名し、内容に対する意見を聞き、その意見の根拠となる箇所を説明させます。日本では、この生徒の説明が正しければ、だいたいここで終わり。ところがアメリカでは、ここから他の生徒にその意見に対する意見をさせ、逆説による検証を始めたりします。「先生が知っている『正解』が出た。はい、終わり!」じゃないんですね。「本当にそうなの?」と疑問を持たせ、自分たちで検証する練習が始まるのです。これが、日常的に行われます。


国語だけではなく、算数でも、歴史理解でも、科学でも、なんでもこの「クリティカル・シンキング力」が問われます。


この辺りがたぶん、日本人の生徒がアメリカに移住した時に面食らうことの1つだと思いますが、まぁ、慣れてしまえば、楽しいもんです。先生の目の中にある「正解」を読むのではなく、自分たちでもっともと思える正解を探せるのですから。もちろん、未熟な思考では脱線することもあるので、そこをうまく舵をとるのが先生の役目です。暗記では無く、こういう授業を通してしっかり学んだことというのは、本当に理解が深まるのでしょうね、一般人でもさまざまな分野の話をとても論理的にわかりやすく説明できる人々は沢山いますね。


新潟南高校では、MITやハーバードの学生とディスカッションの機会を持つとのことですが、この辺りを踏まえて、Q&Aに終わることなく、大胆で有意義なチャレンジができると良いですね。



と、「クリティカル・シンキング、最高!」みたいな文章を書きましたが、日常生活において、この「批判的思考による論証」とかやってると、やっぱりやっかいです。ウチのお父さん先生の家族がもう本当に、寝起きからディスカッションやってる様な家族なわけで、学生時代は本当に良い練習をさせてもらいましたが、今、寝ぼけながら参加すると本当にしどろもどろになるほどでキツいもので、朝はほぼ見学してる私です。


がしかし血は濃いもので、最近、ウチの坊も朝から晩まで、クリティカル・シンキングをやっていることに気が付きました。


私:「〇〇持ってく?△△になるかもしれないから、〇〇あると良いよ。」

坊:「でも、〇〇持って行って、□□になったら?それで、オレが◎◎になって、こらー!ってなるから・・・それで、XXになって~・・・・」


っていうのを、毎朝ニコニコと楽しそうに延々と繰り広げるので、私に気力が無い時は途中から気が遠のくか、時間が無い時は「いいから、早くしなさい~っ!」になるかなんだけど、アメリカ人でもあるこの子を健康的に育てるには、本当は「なるほど、なるほど~」ってたまには一緒に検証してやらないといかんのですな。3歳頃までは、こういう思考回路をいっぱい面白がれてたものですが、子供が現実社会に生き始めると、なかなか難しいものですわ。


それでは、良い一日をお過ごしくださいカメ