真面目なことを書く。 | 不定期更新通信

真面目なことを書く。

最近いじめの報道が目立つ。


あの報道はいじめがどうこうというより、いじめの事実を隠した学校とか教育委員会がたたかれている。


いじめをなくそうみたいな運動のモデル校になっていた問題の学校が

咎められないように事実を隠していたなら本当に本末転倒だ。


報道されているような内容のいじめが本当にあったとしたら、自分達が義務教育を受けていた当時とは「いじめ」というものが全く違うものになっていると思う。


十年一昔と言うけれど、一昔前のいじめはあんなに卑劣でも陰湿でもなかったと思う。


これは子供だけの問題ではなく、大人の問題でもある。


汚い真似を平気でする子供を育て、自分の子供は悪くないと主張する親。


そんな親たちにたたかれるのを恐れて目立った行動を避ける教職員、学校関係者。


そして他人の痛みがわからない残念な子供。


勿論みんながみんなそうではないけど
一昔前はこういう人はもっと少なかった。

モンスターペアレントなんて言葉もなかった。


子供、親、教職員、どこから悪くなっていったとかではなくて、歯止めがきかず人の命まで失われるところまで来てしまったことが残念で仕方ない。





今報道されている一連の問題がメディアの中で一定の終結(加害者の逮捕、学校関係者の辞職等)をむかえたとしても、いじめがなくなるわけではない。


むしろ、悲観的かもしれないがいじめはなくならないと思う。


当然ないにこしたことはないのだろうが、いじめが全くない学校というものはなんだか気持ち悪いし、いじめを通して成長する部分は確実にある。



自分が当時感じたいじめと今のいじめにはかなり差があるため、今の感覚で考えるといじめに当てはまらないかもしれないが、
自分は両方の立場にたったことがある。


今考えればそれは大事な経験であるし、恥ずかしいとも思わない。


ただ、みんながみんな同じ強さを持っているわけじゃないし
いじめの体験が重いトラウマになってしまう人もいるはずだ。


何もしないより行動を起こして、まわりが変わるのを待つより自分が変わる方がきっと早いし楽だと思う。


でもその行動の選択肢に死を入れるのは違うと思う。


将来を捨てて現状から死をもって逃れたいと思う気持ちははっきり言って理解できないが、楽しいだとか幸せだとかを感じる余裕や想像力が本当になくなってしまっているのか。


だとしたら彼らが大人になるころ、社会はどうなっているのだろうか。


ちょうど到着したのでそろそろ終わります。

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