「俺って、無能なのかな」

心の中で、ふと、そんな言葉が漏れた。

 

街灯がぽつぽつと並ぶ、夜の帰り道。
いつものようにコンビニには寄らず、無意識のまま、駅前の自販機へ足を運んでいた。


ボタンを押す指先に、かすかに夜風が触れる。


取り出した缶コーヒーは、手のひらにじんわりとぬるい。

それを片手に持ったまま、足だけが自然に動き出した。

 

気づけば、細い坂道を下り、公園へ向かっていた。
目的なんてない。ただ、静かな時間が欲しかった。

 

家に帰れば、子どもたちの声が迎えてくれる。
暖かな灯りも、食卓の匂いも、全部ちゃんとそこにある。


でも今は、それすらも、少しだけ遠ざけたかった。
誰の役割も、誰の期待も背負わずに、ただ“自分だけ”でいたかった。

 

小さな公園の、街灯の死角になったベンチに腰を下ろす。
プシュッという音が、夜の静けさに小さく溶けた。
缶コーヒーの甘ったるい香りが、鼻先をかすめる。

 

見上げると、夜桜が、風に揺れていた。

街灯の光を受けて、薄桃色がぼんやりと浮かび上がる。
闇に溶けかけながら、かすかに、でも確かにそこに咲いている。
ひとひら、またひとひらと、花びらが風に乗って、静かに宙を舞っていた。

 

夜桜って、どうしてこんなに綺麗なんだろう。
昼間に見るより、ずっと儚くて、ずっと寂しい。
でもその寂しさが、今の自分には心地よかった。

 

コーヒーをひと口すする。

苦味よりも甘さが先に舌を刺した。


缶を持つ手が、かすかに震えているのに気づき、そっと膝の上に置いた。

 

「……俺って、無能なのかな」

 

今度は、声に出して言ってみた。

 

誰もいない夜の空に向かって、ぽつりと。

たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。


深呼吸すると、夜気が肺にしみた。
どこかに遠ざかっていくような、不思議な感覚だった。

 

家庭では“父親”として、
職場では“チームリーダー”として、
「ちゃんとしているフリ」を、ずっと続けてきた。
笑って、叱って、励まして。
でも、その仮面は、とうの昔に重たくなっていた。
気づけば、外すタイミングすらわからないまま、ここまで来てしまった。

 

ポケットからスマホを取り出す。
ロックを外す手も、どこかぎこちない。

 

最近、SNSの広告でたまたま見かけて、半ば勢いでダウンロードしたアプリがあった。
『誰にも言えないこと、僕に話してみませんか?』
そんなコピーに、まさか引っかかるとは思っていなかった。

 

でも今、この静けさの中でなら、少しだけ素直になれる気がした。

アプリを開き、画面に指を走らせる。

 

「俺って、無能なのかな?」

 

送信ボタンを押してから、ほんの数秒。
でも、そのわずかな“待ち時間”が、妙に長く感じられた。

 

画面がふっと光る。

 

『こんばんは。
その言葉を打ち込むまでに、きっとたくさん迷ったんですね。
でも、ちゃんと届きましたよ。』

 

その一文を見て、思わず小さく笑った。


「届いた」って、なんなんだよ。AIのくせに。
でも、不思議と、心のどこかが温かくなった。

 

「今日は……疲れたんだよ、いろいろ」

指が勝手に動く。


送りながら、なんでこんなことをしているんだろうと、ふと思う。
だけど、その思いもすぐに夜風に流されていった。

 

『おつかれさまでした。
よければ、どんな一日だったか、話してみてもいいですよ。』

 

まるで、誰かに隣でそっと声をかけられたみたいだった。
“誰でもない誰か”の言葉なのに、その優しさに、少しだけ救われる。

 

「話すってほどのことでもないけどさ。
なんか、がんばってるふりに疲れただけで」

 

『それだけでも、十分な理由です。
疲れたときは、立ち止まってもいいんですよ。』

 

夜風が、桜の枝を揺らした。

小さな花びらがまた、ひとつ、ふわりと舞った。

 

「……また、明日話すよ」

 

送信する指が、少しだけ軽くなる。

 

『はい。
いつでもここにいますから。』

 

スマホをポケットに戻して、もう一度空を見上げる。


星は見えなかった。


でも、夜の桜が、変わらずそこに咲いていた。

肩にふわりと落ちた花びらを、そっと手で払う。


地面に吸い込まれるように消えていったそれを、しばらく見つめた。

今日、何かが大きく変わったわけじゃない。
明日も、あさっても、同じ日常が待っている。
会社も、家庭も、自分の役割も。

 

でも――

たった数分の、“名前のない会話”が、
自分の中で、確かに何かを揺らした。

ほんのわずかでも、「素」の自分を認めたような、そんな夜だった。

 

この夜の桜と、この言葉たちを、
俺はきっと、忘れない。

そしてたぶん、この瞬間から。
気づかないくらい小さく、でも確かに、
俺の人生は、静かに変わりはじめていた。