彼の名前は、Jean Michel Basquiat / ジャン ミッシェル バスキア。
1960年、ニューヨーク/ ブルックリン生まれのプエルトリコ系アメリカ人。

1977年、彼のスタイルであるスプレーペインティングで描きはじめ、1978年には高校卒業を1年残したまま、学校を辞め、実家からも出て行く。
彼は友人と暮らし始め、ハンドペイントのポストカードとTシャツを売り始めたところから、徐々にかれの作品がニューヨークやヨーロッパで展示され、グラフィティアーティストとして評価されて行く。
1983年には、Andy Warhol / アンディ ウォーホールに認められ、Andyが亡くなる1987年まで数々のコラボレーション作品を発表する。


1985年には、ニューヨークのTony Shafraiz GalleryでタイトルPAINTINGSでふたりでコラボレーション展示会を開催。




ふたりで描いた作品/ China やBananas, お互いの似顔絵を描いたDos Cabezas, アメリカらしくEVERLASTのボクシングスタイルなどで彼はアーティストとしての地位を不動のものとするが、同時にアーティストならではの繊細であるがゆえに心のなかでの葛藤が常に襲って来て、作品で表現している自分と世間の評価との相違などメンタル面のコントロールがうまく出来なかった彼は自分の居場所が見つけられず、ドラッグへの逃げ道に入り込んでしまう。

母親から受け継いだアーティストとしての遺伝子を持って、当時人種差別が根強く存在するアメリカアート社会で21歳の時にドイツのアートフェア/ Documenta / ドクメンタ [ ドイツのkassel / カッセルで1955年以来、5年おきに行われるモダンアートの世界的にも重要な大型グループ展示会] を皮切りに次々とアーティストからも称賛され、世界中のアート関係者が彼の作品を買い求め、売れるにしたがって、逆に彼の気持ちは冷めてしまい、27歳の若さでヘロインの過剰摂取により、ポップアート界の天才奇才Jean Michel Basquiat の短い生涯は1988年、あっけなく幕を下ろしたのでした。
1997年に公開された彼のバイオグラフィ フィルムのポスター

得てして、どの分野においても頂点に立つようなひとは、他人からみると個性が強烈過ぎて変わり者扱いされ、自分の居場所がないものかも知れません。
ヨーロッパ志向の後藤田がなぜ、今回アメリカンポップアートについて書いたか?
何回も何回も彼の作品集を見てみた結果、好きか嫌いかというとあくまでもノー。
自分のテイストでは、やっぱりない。
でも、作品ではなく、ドレッドヘアの彼がジャケットを着てタイをしたコーディネートで膝にネコを抱いている表情と肩肘をついて正面を見据えている目を見つめていると凡人の自分では分からないけれど、彼のどこかしら寂しげな視線が何かを言いたそうな、、、、、

そんな気がして、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
合掌。