私は貝になりたい(2008年)
1958年、フランキー堺が主人公を演じてドラマ史に残る名作と言われている。まだ子どもだったのでオンタイムでは観てないが、きっと後にテレビで観たのだろう。まだ白黒で、フランキー堺が処刑場に連れていかれるシーンが、なぜか記憶に残っている。
『白い影』の2年後のスペシャル版のメーキングVで、夜中に登場した山本学に、「この人、テイク17とかやらせるんですよ。学さんしか言えないから何か言ってくださいよ」と、福澤監督の腕をつかんで訴えていたところを観ると、もうかなり親しいんだなと。『砂の器』、本作と3度、中居を起用したということは、やはり、2人の相性は良かったと思われる。
今回、主役清水豊松を演じた中居へのインタビュー
主演を務めるに当たって、どのような意気込みで臨まれましたか?
福澤監督が一年の四季を追いかけたいということで、長丁場の撮影だったんです。僕は半年程度でしたが、ドラマ、舞台を考えても短い方ではないと思います。なので僕にとっては、気持ちを切らさないようにすることが大事でした。
確かにモチベーションの維持は難しかったですが、やるしかない状況に自分を追い込みました。疲れたとか無理とか言っていられないような状況でした。
プレッシャーはありましたか?
不安はありました。「私は貝になりたい」は名作で、しかも今回は大作であるという意識で撮影に臨みました。それこそ、福澤監督にしがみつきながら、福澤監督の思い描いているイメージに、とにかくとにかく近づく努力を重ねました。僕が演じた清水豊松が体験するような、不条理で理不尽な思いをしている人が、今も世界のどこかにいるかもしれません。僕は本作で世界を動かせるとは思っていませんが、人の心は動かせると思っています。
妻役の仲間由紀恵さんと共演された感想は?
僕は仲間さんと結婚しているわけではではないので(笑)、役として夫婦を演じることは難しかったのですが、演技をする上で非常に助けていただきました。それと、僕が坊主になるシーンで、本当に仲間さんに刈っていただきながら思ったのは、夫婦のコミュニケーションは大事だということです。もし実際に夫婦の方々が「私は貝になりたい」をご覧になるなら、もう一度夫婦の絆を見つめ直す機会にしていただけると思います。
徹底した減量・役作りに関して、どんな思いで役の準備をしていたのですか?
とにかくお腹が空きましたね(笑い)。もし一回でも食事をしてしまったら、次も食べてしまう自分がいることを自覚していました。なので、もし食べるのなら人前で食べようと。自分の家とか人前じゃない場所で食べることだけは絶対しないと。結果的には、まったく食べなかったので、ひたすら我慢をするだけでした。
その間、ほかの仕事との両立は大変ではありませんでしたか?
ちょっとしたことでイライラし始めて、これには焦りました(笑)ただ、イライラしていることを顔に出したり、口に出したりすることをしないようにコントロールすることができたんです。それと空腹になると滑舌が非常に悪くなることに気付いて驚きました。最終的に9キロの減量になりましたが、野球でもそうですが、僕は監督の言うことは絶対だと思っています。監督の指示に従わないと、僕だけでなく、チーム全体がよどんでしまうと思いますし、いい作品は作れないような気がします。
最終的には福澤監督から「食を断ってくれ!」と言われたそうですね?
僕が家族に手紙を書くシーンは、福澤監督の思い入れが一番強いシーンだということで、撮影の直前に食を断ってくれと言われたんです。水分とビタミンゼリーだけを口にして、糖分も何日かに1度はとっていました。撮影直前の10日間は本当に辛かったですね。最後にもう一つだけ課題を自分に課したくて、撮影前夜は徹夜をしました。本番前には眠気も空腹もまったくなくなって、意識だけ朦朧としている状態を作り出すことができました。
そのすさまじい努力のお陰で、豊松の怒りが見事に体現されていました。
あのシーンだけは、とてつもない怒りを表現したんです。豊松は家に帰りたいと独房の仲間たちに愚痴をこぼすことはあるキャラクターですが、手紙を書くシーンに至るまでのセリフの中で一言も戦争反対と声高に叫ぶことはしないんです。なので、福澤監督は、その手紙を書くシーンで豊松の思いをぶちまけて、訴えてほしいと言われていました。あのシーンだけ、「よーい。スタート」ではなくて、全部スタンバイしてから僕が現場に入って、僕のタイミングで演じさせていただいたんです。
次回もインタビューの続き