愛があれば、あなたがどんな事をしようとそれは正しい行動だ
決してその人生に争いごとは起こらない

だから、嫉妬や恐怖、争いごと、心に痛みをもたらす関係は、
愛あるところにはありえないということ、愛あるところには決してありえないということを
しっかり分かっていることが大切だ
そして誰もがそこから自由になることができる

それも明日にではなく「今ここで!」

敵は他人なのではない
敵はあなた自身に存在しているのだ


ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895年5月12日 - 1986年2月17日)

[インド生まれの宗教的哲人、教育者。
一般的な分類としては宗教家になるが、自ら宗教団体を解散し宗教批判を行った。不必要な知識や記憶がもたらす条件付けからの解放や、洞察による脳細胞の変容などを指摘した彼の教えは、その現代的なアプローチから宗教という枠にとどまらず、幅広い支持者を獲得した。

クリシュナムルティの教えの中心となる主題は「あるがままの全体的知覚」である。「全体的知覚」とは知覚している知覚者と知覚されている対象の間に分離がない純粋な知覚状態のことであり、人の全存在がそのような状態にあるときにのみ、自らの条件付けを解消する真理の知覚が起こるという。

クリシュナムルティは、「その状態を意図的な努力や訓練、または宗教団体や何かの組織に属することによっては引き起こすことはできない」と言う。

真理の知覚が可能となるのはあるがままの全的知覚の中だけであり、その状態の中では知覚者自体が消失してしまっているので、当然知覚者の存在を前提とする「思考」によっては真理の知覚は不可能ということになる。それゆえ思考を伴う哲学などの観念操作や、「目的に向かって為されるいかなる行為」(瞑想などの宗教的技法も含む)もすべて否定の炎によって浄化されなければならないと彼は言う。思考や観念は純粋に物理的な領域ではその役割が必要とされるが、真理の知覚といった次元にそれを持ち込もうとすることは有害なのである。

観念や信念への固執は真理の正しい知覚をもたらさないばかりか、人と人との間に争いをもたらす。政治的イデオロギーや民族のアイデンティティー、宗教的信条の対立は世界中で争いの源になっている。「神を信じる者は神を発見することはできない」とクリシュナムルティは明言している。神とか悟りを開いた人にすがろうとするのは不安から逃れようとする精神の働きであるという。 実際、クリシュナムルティ自身の運営する学校で、「この世が混乱しているということは、(この世を創造したとされる)神が混乱しているということでしょう」と語ることで神の存在を揶揄し、神なるものを信じる父兄からいくらなんでも、と顰蹙を買ったことがある。

自分が矮小な存在であることに耐えきれない精神(自我)はより大きな存在、民族や国家や神と自分を同一視しようとする。そして他人も自分と同じ信念を持つように強いる。しかしこのような大きな存在の正体は自我が投影した幻影に過ぎないため、人を結合させるどころか分離させるばかりである。]