千人塚 大衆塚 西光寺 岡崎市鴨田町 | 東海愛知新聞『矢作に住んでみました』バックナンバーはコチラ

松平家4代目 松平親忠が関わる西光寺

 

ここ井田野の合戦場では、たびたび激しい戦いがありました。

その場所で、敵味方の区別なく、死者を弔ったのは親忠です。

 

あまりにも亡霊騒ぎが酷かったため、

その亡霊たちを慰めるために、七日に渡りご祈祷を続け

やっと騒ぎが収まったそうです。

その時にご祈祷した上人を大樹寺初代住職に迎え、

大樹寺が創建されました。

 

ここ、井田野の地は岡崎にとって、

大変重要な場所のうちの、ひとつであると言えるでしょう。

 

その後、家康の時代になり、

家康をかくまって亡くなった僧のために、

大衆塚が建てられたと考えられています。

 

千人塚も、大衆塚も、とても綺麗に整備されています。

 

 

案内板より

岡崎観光文化百選 井田野古戦場
1467年8月23日、松平4代親忠と、寺辺、伊保、八草、挙母、上野の土豪軍が、この辺りで激しい戦いをしました。勝った親忠は、戦死者を敵味方の区別なく葬って塚を築きました。これが今も残る千人塚です。
ここ西光寺には、家康が桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ際、追手の織田方と戦って倒れた多くの僧を葬った大衆塚もあります。
井田野は、その後3度も激しい戦場となりました。

 

 

大変味のある看板。50メートルというよりは、もう少しあるような気がします。でも歩いてすぐそこです。

この下に、大勢の死者が埋められているのでしょうか。

知らない土地で命を落とした人々の無念さが胸に迫ります。

皆さんの尊い犠牲のおかげで、私たちは今、平和に暮らしています。ありがとうございます。どうか、安らかにお眠りくださいと祈りました。

 

案内板より (岡崎市教育委員会案内板)
千人塚
市指定史跡 昭和49年1月11日指定
松平氏が発展していく過程で、周辺各地の勢力との戦いが繰り返され、井田町から鴨田町にかけての地でも、井田野合戦と呼ばれる戦いが数度におよんだ。
応仁元年(1467)、明応2年(1493)には、加茂郡をはじめとする勢力がこの地に進出、安城松平家の親忠ら松平一族が井田野に迎えうち、これを撃退したと伝えられている。
親忠は、この合戦の戦死者を敵味方の区別なく埋葬して塚を築いたといわれ、後に千人塚と呼ばれるようになった。
低い円墳状の地の墳頂に、約2メートル程の石碑が建てられている。碑銘は、正面が「南無阿弥陀仏」、左側面が「井田埜戦亡精霊金台」、右側面が「元禄九丙子年八月十五日 大樹寺廿八世 忍誉碑銘焉」である。その他にも小さな碑あるいは墓が20基程建てられている。

岡崎市教育委員会

 

 

 

見晴らしの良い通ろに建てられた阿弥陀如来さま。

とてもおおらかで優しいお顔をされています。

 

 

案内板より (岡崎市教育委員会案内板)
岡崎市指定文化財 西光寺
彫刻 阿弥陀如来石像 1躯 
座像の阿弥陀像で、蓮華座の上にあり、銘文が像の背面真中に刻まれている。風化が進んでいるが、「永禄3年5月」の銘が確認できることから、桶狭間の合戦の後、織田信長と松平元康との戦いにて、戦死した者の霊を弔うために建てられたものと考えられる。