(アーカイブ)

北条時茂子孫の伝承がある

湧井・涌井氏のこと

 

いつもご覧くださる皆様、

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心から感謝致します。

皆様にとって良い事が
 
たくさんありますように!



あくまでデータが

消えてしまう前にメモ

今回はご興味のある方のみ向けの

記事です。

前にお伝えしたように、

 

拙サイトの外部コンテンツとして、

 

北条義時の息子である重時が遺した

 

家訓をもとにした、

 

「重時メッセージプロジェクト」


を進めています。

 

昨年、

 

作成した説明文にさらにテコ入れしたものを

 

先日作ったのですが、

 

その際に、このブログにもとりあげた、

 

「重時の息子時茂の子孫伝承について」が、

 

碑と、とあるサイトに書かれていることを

 

書きました。

 

 

その際の引用部分です。

 

「現在は閉鎖されているサイト

 

「涌井のルーツを探れ!」


にある内容が詳しかったです。

 

わく井友の会の冊子の1989年8月15日に、

 

僧侶で思想家であった、

 

湧井雄山氏

 

(この方は著作があるので

名前はヒットします)

 

の文章がもとだとされています。

http://www2m.biglobe.ne.jp/~wakui/wakui.html

 

(URLは無効です)」

 

ただ、あくまでアーカイブとして、

 

文章自体を保存した方が


よいかと思ったので、

 

メッセージプロジェクトサイト


に掲載する前に、

 

このブログにも


あげておくことにしました。

 

というか、

 

理由は不明ですが、

 

なぜか朝から、


これをブログに書いておけと


誰かに言われているような

 

ビジョンが離れないのです。

 

 

1 『わく井友の会』冊子 

1989年8月15日

 

※私がサイトからコピーした箇所のみです。

時茂から常岩流(常葉/常盤)の流れは、

慎重に見るという説もありますが、

こういう説もあるという

観点でお願い致します。

 

「湧井氏の始祖は、鎌倉幕府連署二代、駿河守、相模守、六波羅探題(北)、極楽寺殿、北条重時の三男、北条時茂(陸奥四郎、陸奥守、左近将監、号常葉)である。

 

(中略)北条時茂は建長六年(一二五四)常盤牧を受領し、その支配者の女に一子を生ませて、常磐氏を支配した。そして常盤氏はいつしか常岩氏となった。

 

その間初代常盤氏には三人の子があり、そのために三分した。北条を宗家とし、北条、中条、南条と名乗り、それぞれの地に分封した。

 

元弘三年(一三三五)二月、後醍醐天皇、北信の北条の残党討伐を命じ、志久見の市河助房ら、常岩北条の城を破却した。

 

この時常岩中条は、おそらく高梨、村山氏に襲われたもののごとく富倉峠を越えて富倉の地に逃れ、さらに富倉南西方一〇キロの斑尾山南麓の「出ル水」の地に隠れ住み、同地の出水池(イズレイケ)の湧き水を見て、中条の姓を湧井に改め、その地を約二〇〇年間支配し、湧井寺を建て、眞宝寺なども出現し、飯山市の涌井峠より、長野県下水内郡豊田村永江字涌井に至るまでを支配し、地名も涌井となり栄えたが、豪雪と寒気のため燃料として背後の山の木を伐り尽くしたため雪崩に悩まされ、天文の初め一族を解散し、湧井奬監はこの地を放棄し一国一城の主を夢見て更正の地を東海に求めて美濃に出た。

 

それは、川中島の戦い以前のことであった。分散した一族は、南へ出た者は長野県上高井郡高山村駒場の涌井や須坂市の涌井となり、東へ出た者は千曲川を下り、新潟県中魚沼郡津南町の涌井や新潟県全域の涌井となり、また飯山市涌井より長沢川を下り、北へ出た者は、新潟県新井市や上越市の涌井となったものと思われる。(中略)

 

この間、湧井家の伝承によれば、湧井家は今まで一度も血統が断えたことはない。

 

男は少ないが長男が跡をとり、次男三男は他家に養子に行くか、僧侶になるというのが例であった。

 

私(湧井雄山氏)は三男であったので、祖父は私を僧侶としてもよいように、秀応と名づけられたのであったが、町の戸籍係から應の字は難しい。

 

「ひでお」か、應を雄にしなさいと言われ、父は雄に変えてしまったとのことである。

 

ちなみに原籍地栃木県芳賀郡茂木町増井には、湧井三軒といわれ、湧井が三軒あった。

 

本家と分家は湧井、新しい分家は涌井であった。

 

すなわち、言い伝えによれば湧井姓を使用するものは本家筋に限られ、分家したものはすべて涌井姓としたというのである。

 

これが、湧井が涌井と比し、湧井が極めて少ない原因とされている。」


雄山氏は1984年に電話帳を元にした


調査をされたそうです。

 

2 実際の碑の裏側にある文章

 

※碑の裏の写真は下記のサイトからの拝借です。


私はこの碑を見に行ったことがありますが、


表しか写真が撮影できなかったので


大変貴重な写真です。

 

 

 

「涌井」の地名の由来

 

この地は、湧井 涌井氏の発祥の地、涌

 

井である。もと鎌倉幕府執権六代北条長時

 

弟、六波羅探題五代北条時茂の流れ、飯山

 

常盤牧常岩中条の城主 至徳四年(一三八

 

七)高梨村上同心輩に襲われ、中条を逃れ

 

この地を開き、出水池の湧水にあやかり湧

 

井氏を稱し栄えたが、豪雪と寒氣のため斑

 

尾山を乱伐し、雪崩に悩まされ、この地を

 

放棄した。涌井の地名はその名残りである。

 

ここに同族の有志、わく井友の会を結成し

 

この地との親睦を深め、この碑を建てたも

 

のである。

 

昭和五十七年八月十四日

わく井友の会々長 湧井雄山撰文

 

 

 

このことが


どなたかのお役にたちますように!

この世に本当の偶然はありません。

全ては必要だから起こっています。

ご縁がなければ出会えないように

なっています。

そういうあなたとご縁があったからこそ、

本日、


このブログで出会うことができました。

ここまでご覧くださり、

本当にありがとうございました。

皆様にとって良き日、

良き時間でありますように!

合掌