独り言なので … 気にしないでください
地震からこの方色々あったので、ピグもきたよとグッピグ集め程度。その他もボチボチって感じだったのですが、復活しだしてきたのですが、なんとなく書かないとちゃんと復帰できない気がするので書いてみます
今回の地震、私の住んでいるところは、震度5弱、本棚の本が落ちたり、テレビが転がったり、棚のものが散乱したりした程度
実家は茨城の水戸よりちょっと北の震度6、なかなか連絡がつかなかったが、家の破損等の状態を聞き、駆けつけることにする。ただ、道の陥没等あるとの事なので、安全を考え翌日移動とした。
備蓄してた水や食糧、アウトドア用品などを車に積み出発。電車が止まって高速道も閉鎖されていたので下道で行って、普段だったら高速で2時間半程度の所が8時間以上かかった。途中から所々信号が動いてないところもあり、水がないためかコンビニのトイレも使えない状態になっていった、さらに実家に近づくにつれ、信号は完全にストップ。開いてる店もなし。自体の深刻さを実感しながらの移動であった。
家は瓦がちょこっと落ちたり、塀が一部崩れたり、家の中はぐちゃぐちゃだった
ライフラインストップで、夜は真っ暗水もなし。信号機も動いてない。携帯の電波もと途切れがち。炊事はカセットコンロがあったので、アウトドア用の炊事セットまで活躍する必要はなかった。
散乱したガラスや陶器の破片は危険なので、生活空間を確保するのをまず最初に行う。
夜になって暗くなると、電池のストックがあったが節約し電池式ランタンは使わず、ロウソクで過ごす。もったいないので早寝早起き周りの電気がないということは、夜の星空は綺麗であった
翌日、道路側の塀の瓦礫の片付け(一部人手で動かせないものもあったが)を行い、家の中はガラスや陶器の破片の危険物の片付け、動いたり倒れた家具の片づけをし、なんとか人が暮らせるようにして、へとへと。掃除機の使えない不便さを実感。
初日動かせなかったソーラー発電の取説を見直し、自家発モード(?)にして昼だけ電気復活
昔からある井戸で水が汲めるようになった。携帯も充電できる。水があるというだけで感じる安心感!!
近所にも知らせて、さらにご自由にと張り紙したら、聞きつけて遠方からも汲みに来ていたし、来てた人々は水があるということで和やかな雰囲気があった。
孫のオムツを替えたときのお尻が拭きたいんですが、そういうことに水使ってもいいですかと鍋ひとつ持ってきたおばあちゃんの申し訳なそうな笑顔も印象的で忘れられない
(水の配給は開始が遅く、長蛇の列、一人20リッタまでと制限が多く不便だった)
水がなくて飲食や料理もそうだが、とても不便なのはトイレである。風呂の残り湯を利用できるが、なくなれば川に水汲みに行った話を聞くが、ガソリンが手に入らないので、自転車や徒歩での水運びは大変だったらしい。そんな中で井戸があって水がすぐ手に入ると知ったときはとてもホッとしたと後日お礼に来た方からうかがった。
震災直後から家の電話は、かけてもコールされるがつながらなかったが、現地に行ってみると留守電機能付の電話は電気がないとコールすらされない。昔の黒電話を震災で散乱した部屋のなかから片付け時にみつけたのでつなぎ直してみるとちゃんとコールされた。アナクロはすばらしい。
日曜の夜中の11時ごろ電話がなって、出に行くと復電していた。やはり電気があるということの嬉しさ感じ、復電時用に切っていたブレーカを全部入れて家中の電気を付けてみたりした
家の暮らせる空間の確保と水の確保ができたので、日曜の夜中に渋滞を避けて帰宅。朝方5時ごろに到着し、また行かないと行けないので、いつもの24時間ガソリンスタンドに。開いてない。売り切れとの張り紙が…
そんなアホナ。被災していない東京で何馬鹿なことやっているんだと怒りを感じつつ、慌てて開いてるスタンドを探し回って2時間かけても見つからず、あきらめて帰ろうとしたところで一軒だけ見つけられて、満タンに入れられた。家に戻りへとへとになったまま仕事へ…
実家の前の道の(ちょっとであるが)陥没が危険なので、町内会の会長さんに砂利埋めでもいいので対応できないかと役場にかけあってもらったら、5日目には見栄えはともかく復旧した。
陥没して通れなかった道や陸橋、橋など片側だけでも通れる様にして復旧させ、生活ラインの対応の速さは驚いた(今現在も通れてない場所もある)
ピグはきたよ程度はやっていたが、応援の募金アイテムに献金している人々や、ブログに応援メッセ書いたり、部屋を応援のメッセ作ったり、みんなそれぞれができる事をしていた。実際にチャリティー活動を始めたり、現地にボランティアにいったりしたトモもいて、みんなすばらしい。
帰宅後も実家と連絡を取っていたが、風邪をひいた様子との事だった。
父は気管が弱く、その病気で死にかけた事も何回かあった。地震発生時にそのショックか2日間薬を飲み忘れていた。その後の事なので家の片付けは次ぎ行ったときにやるから、無理にやらず早めに病院に行く話をする。
そういうこともあるのでしばらくこっちに来るように話するが、自分のやりかけの仕事があるからときかないのを無理やり説得して3連休の後1週間だけこっちにこさせる事にした。
その後調子を崩して肺炎で入院したとの連絡。病院は人が多くお湯も使えない、食事もありあわせ程度の状態との事だったが、看護はしてもらえるのでちょっと安心。3連休に転院の話をするが、酸素吸入しているので高速道も無しの状態で長時間の移動は難しいという話で断念。3連休に片付けをかねて見舞いに行こうとも思ったが、その時はいいが、ガソリンが手に入らない状態での移動は緊急時に対応できなくなるので、非常に無念に思いながら断念した。
(3連休後に政府の備蓄放出で徐々に手に入るようになった。遅い…)現地ではガソリンが手に入らずスタンドへの行列。路上でガス欠して止まっている車もあるため、仮に買えたとしても現地の燃料を減らすわけにはいかないのである。
その後人手で動かせない塀の一部の撤去を頼んでいた業者から、作業当日に家で水が漏れているという連絡があり、あわてて夜中に移動して様子を見に行くが、水道復帰の時のトラブルで一階はすべて水浸し。手がつけられない状態。徹夜で危険なものだけ対応して自宅に戻り、友を募って週末に手伝ってもらう話とした。
家具を移動して干したり、畳上げて干し、床下にたまった水をポンプで吸い出したり、色々あった。一人ではとてもできなかった。
1日では終わらないので2日対応できる仲間を募集したが、余震が怖いので行かないという人もいた。別にそれはそれで責めようとは思わない。でも急な話であったにもかかわらず、何とか都合つけてくれようとしたり、1日だけでも自力で電車で行ってくれるといってくれた友もいて、非常にありがたかった(電車は動いてなかったので実現はしなかったが)。なんとか仲間を募って現地に行ったが、移動前日に仕事のトラブルで徹夜で来てくれた友もいた。非常にありがたい。
仲間の協力もあり、なんとか暮らせるエリアを確保して、あとは乾くだけまでして自宅に戻った。
その翌週退院できるという話を聞きちょっとホッとした。
翌週の金曜の午後に退院し実家に戻るが、調子が悪いということで寝込んでいた。日曜には明らかに状態がおかしかったので、病院に連絡して連れて行く。即入院。肺炎が悪化していた。2日間治療したが症状の改善が見られずそのまま専門病院に転院。専門病院なのでちょっと安心して、移った後に内視鏡検査を行うまで、前の病院の退院手続き等して病院に戻ると、状態が急変してICUに運び込まれたとの事。
静かに寝ていて、付き添いもできなかったので、実家へ戻って休んでいたら病院から電話があり気管挿入しないとまずい状態なのでその許可を求められらた。事前に状態の説明でその旨の話があったが勝手には術できないらしい。即依頼して病院にかけつける。なにができるわけでもないので、そのまま談話室で夜明かし。
その後もそういう状態が続き、地震でも水事故でも疲れはしたがめげなかった。しかしさすがにこたえた。。。
夜実家に戻っても何もする気がせずに暗い気持ちで、きたよでも回るかと思ってまわって、ふとトモの部屋に行ったときに爆笑してしまった。3人(以上いたけど)のピグが同じ顔にして着せ替えして踊ったりふざけたりと馬鹿なこと(ゴメン)をしていた。しばらく雑談したりして、ものすごく暗かった気持ちが救われた感じがしたんだ。
その後気管挿入も取れ、ICUから一般病棟にようやく移れたが、まだまだかかりそうである。
実家の修理も資材が手に入らなくて遅々として進んでいない。
それでも、高速道も復活しているし、電車も本数は少ないが復活し、ガソリンも手に入るようになった。まだ復帰していない橋や道もあり、原発の風評被害とか色々問題も残っている。
それでも震災から1月ちょっとで色々良くなってきている
今回の地震で、もっともっと大変な目にあっている人々がたくさんいるし、自分が特別だとは思わない。
ただ、ピグをやって私みたいに救われている人々もいるのではないだろうか。
家族が行方不明になっている人々、お亡くなりになってしまった人々、住む所や仕事が亡くなってしまった人々、住む所あるけど不便を強いられている人々、原発の被害や風評被害にあっている人々、原発で戦っている人々
そうでなくとも職を失って困っている人々。
挙げ出せばきりがないかもしれないけれど、みんなめげずに頑張って欲しいと思います
今回これを書いても、コメもメッセもいりません。。私は大丈夫です。
みんながかしこまらずに優しい気持ちでピグを楽しんでもらえればと思います。