大切に思っていた人、深く心が通じ合ったと感じる相手との関係の中で、心がえぐられるような、トラウマになりそうなほどの痛みを感じたことはありますか。
相手は自分の最も深い部分を映し出す鏡だと言われます。だからこそ、無意識に目を背けてきた傷や恐れを的確に突かれ、どうしようもない絶望感に襲われることがあります。
私自身、そんな深い痛みの底で、もがいていた一人です。
過去の美しさを信じ切ろうとする防衛本能
傷ついた心を癒やすために、「手放すことが大切」「執着をなくそう」という言葉を何度も目にしました。でも、それがどうしても難しかったのです。
「あんなに深く心が通じ合ったのだから」
「あの光は間違いなく本物だったから」
過去の美しかった思い出や確信を強く握りしめ、信じ抜こうとしてしまう自分がいました。でもそれはきっと、これ以上傷つかないための、切実な防衛本能だったのかもしれません。過去の光が本物だったからこそ、心はそこを唯一の安全地帯として留まりたがっていたのだと思います。
美味しいものを食べたり、自分のための時間をゆっくり作って休息したりもしました。でも、ふとした瞬間にまた同じ痛みに引き戻されてしまう。
「どうしようもないな」「また同じことの繰り返しだ」
そうやって、何度も同じ場所をぐるぐると回っているような焦燥感に駆られていました。
相手をコントロールしたくないという現在地
それでも少しずつ、自分の中でハッキリと見えてきた思いがあります。
それは、「相手を試したり、コントロールしたりしたくない」ということです。
自分のこの痛みを、言葉にして誰かに伝えたい、発信してみたいという気持ちはあります。でも、その言葉が相手を傷つけたり、悲しませたりするのではないかと考えると、どうしてもブレーキがかかってしまう。具体的な内容を伏せたつもりでも、伝わってしまうのではないか。相手の考えや行動を否定し、私の「エゴ」をぶつけてしまうだけになるのではないか。
そもそも、私が手放したいと考えている「エゴ」とは何でしょうか。
それは夫婦や恋人、家族といった身近で深い人間関係において、私たちがしばしば抱いてしまう執着や自己中心的な欲求のことです。
「なぜ私の気持ちを分かってくれないの」
「私の思い通りに変わってほしい」
「私の方が正しいと分かってほしい」
あるいは「私ばかりが我慢して傷ついている」と被害者になってしまう心。そうやって相手の領域に踏み込み、自分の都合の良いように相手をコントロールしようとする心の働きが、エゴの正体なのだと思います。
どのような関係性であっても、互いを一人の人間として尊重し、精神性を高めながら成長していく過程において、この「エゴ」は必要ありません。私は今、そう強く思っています。
だからこそ、「相手がこう言った」「こういう態度だった」と相手を主語にして責めるのではなく、ひたすらに「自分が何を感じ、どう向き合っているのか」という自分の内側にだけベクトルを向けていたいのです。
答えを出さないという誠実さ
休んでも痛みがぶり返す「どうしようもない泥沼」の中にいるときは、本当に苦しいものです。でも、「また繰り返しているな」と自分の現在地を客観的に見つめ、こうして葛藤を抱えながらも相手を思いやろうとしている自分自身のことは、少しだけ誇らしく思えます。
無理に「私は過去を手放して完全に乗り越えました」なんていう、綺麗な結論を急ぐ必要はないのだと思います。
今はまだ、過去を完全に手放すことはできていない。
エゴを削ぎ落とそうと葛藤しながら、静かに立ち止まっている。
それが、今の私の等身大の姿です。
もし、あなたも同じように過去の光を手放せずに苦しんでいるのだとしたら。無理に前を向こうとしなくて大丈夫です。痛みを繰り返す自分を「どうしようもないな」と受け入れながら、ただ今日をやり過ごす。今はそれだけで、十分に満点なのだと思います。
いつか、この絡まった感情がろ過されて、純粋な「気づき」だけが残る日まで。焦らず、自分の心と対話しながら歩んでいこうと思います


