モサド(イスラエル情報部)の元長官イサー・ハレルはかつて落合信彦とのインタビューで「一番印象に残っている作戦は?」と聞かれ、「アイヒマンを生け捕りにしたことだろうな」と答えた。
その言葉の通り1960年ハレル自身が指揮したモサドの特殊工作部隊は、アルゼンチンに潜入、数百万人のユダヤ人を強制収容所へ送り込んだ元SS(ヒットラー親衛隊)中佐アイヒマンを誘拐した。その後エルサレムで裁判にかけられ、アイヒマンは1962年に絞首刑になる。
モサドがアイヒマンをあえて暗殺しなかった理由は明白だろう。
これほどの大物をプロパガンダに利用しない手はなく、また簡単に殺すには憎しみが強すぎる相手でもある。
初めから結果ありきの裁判だったが、これを傍聴して書いた1人の女性ユダヤ人哲学者の手記が世界中にセンセーションを巻き起こした。
実話の映画化「アンナ・ハーレント」は、敬愛される世界的な哲学者が一夜にして世界中から非難され、思い悩み苦しんだ時代を描く。
彼女が唱えた「悪の凡庸さ」とは?
ニューヨークに住む哲学者ハンナ・アーレントは、第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出した過去を持つ哲学者。
イスラエルで行われたナチスの大物戦犯アドルフ・アイヒマンの歴史的裁判に立ち会い、ザ・ニューヨーカー誌にレポートを発表したが、そのアイヒマンを擁護するかのような衝撃的な内容に世論はざわめき立つ。さらにユダヤ人組織がナチスに協力したことも暴いたため、発言を撤回し本の出版をやめるよう様々な方面から圧力がかかる。
次第に追い込まれていったハンナは自分が教鞭を執る大学で、学生たちへの講義という形によって反論することを決意し、聴衆が櫛比する中、哲学者生命を賭けた渾身のスピーチを始めた。
本物の裁判記録映像と劇中の法廷シーンをシンクロさせる手法はあたかも実際に裁判を傍聴しているようなリアリティがあったが、この小役人的な話しぶりでいじめられっ子タイプのどこから見てもとても怪物には見えない本物のアイヒマンを映し出すことが何よりも重要であると監督は考えた。
どんな役者が演じても彼の本質には迫れないと直感したからだ。
その本質こそが「悪の凡庸さ」だ。
それは思考を放棄した人間が陥る現象であり、それによって邪悪な心を持っていないごく平凡な人間であっても悪魔的な行為がなんの躊躇もなく行うことができる。
つまり考えることをやめた時、人間のモラルは一つのピースを抜いて崩れるジェンガのように一気に崩壊してしまうのだ。
全体主義というとめどなく供給されるエネルギーで稼働する官僚組織という巨大メカニズムの中に組み込まれ精密部品に成り下がった人間は、何も考えずに命令に従うだけの存在となり、アイヒマンもその1人だったとハンナは主張したのだ。
クライマックスの大学でのスピーチはそんな彼女の主張する「悪の凡庸さ」を余すところなく表現していた。
アイヒマンには善悪を判断する意識も政治的理念も大量虐殺への良心の呵責も反ユダヤ的概念すらもなく(事実戦争前にはユダヤ人の友達がいたそうだ)、組織に忠誠を誓っただけだったと。
だが、そのために彼女はイスラエルを敵に回し、シオニストの大事な友人も失う。
彼らには到底受け入れられない発想だったことは想像に難くない。
彼女の論調は、同胞をホロコーストの共犯に仕立て上げ、ナチの戦犯も犠牲者だと言わんばかりのものだ。
悪魔のような所業を抽象的概念に置き換え哲学的に分析すること自体傲慢だと思われた。
だが我々日本人は別の見方ができるはずだ。ハンナが感じ取った全体主義国家の中における自我の破壊は、かつて同じ経験をした歴史を持つ日本人ならしっかりと受け止め理解しておかなければいけない。
これを観ながら「白いリボン」と「es」の2本のドイツ映画を思い出した。
前者は第一次世界大戦前夜に起こるある小さな田舎の村での不可解な事件。
この中に登場する宗教としきたりに抑圧された子供達の行動は、やがてドイツが歩み始めるファシズムの歴史を予感させる。
後者は実際にはアメリカのスタンフォード大学で行われた心理学実験であるが(映画化当時は被害者の訴訟が終わっておらずアメリカでは上映すらできない所があったが、のちにアメリカでもリメイクされる)、ドイツで映画化されることで違った意味を帯びてくる。
囚人と看守の役に成りきって2週間過ごす実験を行ったところ、囚人は次第に卑屈に看守は傲慢で暴力的なっていき、やがて危険な暴走を始める。
この2作に共通するのは外的要因が人間に及ぼす怖さだ。
先頃「STAP細胞」と呼ばれる新しい「万能細胞」の発見が話題になったが、動物の細胞は外部刺激では絶対に初期化できないという細胞生物学の歴史を塗り替える画期的な発見だった。
だが細胞だけでなく人間は心も外的刺激で容易に初期化されどんな思想にでも染まることができる。
全体主義国家の中では集団を酩酊させるような危険思想のシステムが無意識下の中で心に刺激を与え続け、アイヒマンのような凡庸な悪を多く産んでしまった。
我々は誰もがアイヒマンになり得るのだ。
昔、悪いことをした時誰々がやれって言ったからというと先生に「じゃあ、その子が死ねと言ったら死ぬのか?」と言われたことがある人も多いと思うが、あれと同じなのだ。
思考をやめた人間は自覚のない悪魔になる。
そのことを私達は決して忘れてはいけない。