視点を変えると物の見方は大きく変わる。
例えばきりんの首はある意味とても短い(逆に言うと足が長すぎる)。
足下の水を飲む時、彼らは思いっきり足を開いて体を低くしないと水が飲めないのだ。
1人の人物を評する場合はもっと複雑だ。
評価する側の立場や考え方、その時代が支配していた道徳観によっても大きく変わってくるだろう。
百田尚樹の作家デビュー作である「永遠の0」は、ある1人の特攻隊員の姿を戦争を生き延びた人々の多視点により描いたものである。
司法試験に何度も落ち弁護士になる夢を諦めかけていた佐伯健太郎は、祖母の葬儀の日に祖父とは血のつながりが無く、本当の祖父は太平洋戦争の特攻出撃でなくなった零戦パイロットだったことを知った。
その後フリーのライターである姉に頼まれ、本当の祖父宮部久蔵の事を調べることになった健太郎だったが、同じ戦場にいた人々から話を聞くと口を揃えたように酷評される。
「あいつは海軍一の臆病者だった」
だが宮部の部下だった井崎という人物から話を聞いた時、祖父が超一流のパイロットであり、どんなに罵られても家族のために生き抜く決意をしていたことがわかってくる。
そしてさらに調査を進めていくとその先に衝撃の真実が待ち受けていた。
戦闘機のドッグファイトシーンは迫力があり、アクション映画ではないのに手を抜いておらず、戦闘の激しさが迫力映像で伝わってくる。
主人公を現代の若者に据え、祖父を通して太平洋戦争当時の同世代の青年達がどんな思いで闘ったのかを考えていくというところに従来の日本の戦争映画にはない新しさを感じた。
取材を通じてパズルのピースが埋まっていくように謎だらけだった祖父の人物像が明らかになっていくくだりは、さながらミステリーのような趣きがあり、宮部が最後の戦場へと向かっていくまでの軌跡を辿って行く。
しかし、生き延びることに執着し続けていた宮部はなぜ特攻に志願したのか?
この一番大きな謎は、実は最後まではっきりとは語られない。
話の流れから自分の命が大勢の部下の犠牲の上に保たれていることに耐えられなくなったと解釈できるが、そうなるとラストの奇跡がなければ宮部は必ず帰ると言った妻との約束を果たすのを諦めたことになり、ここが引っかかる。
映画にも原作にも描かれていなかったこの時の宮部の心情はどのようなものだったのだろうかとこのレビューを書いていてふと思い返した。
世間では原作を思想的に批判する向きもあるようだが、映画は当時の軍上層部やマスコミへの批判、老人達の語りや姉弟の不自然な会話に盛り込まれた作者の戦争観などは、大方拭い去られ残りカスがチラチラと見える程度で、同じ言葉の繰り返しやストーリーとは関係のない姉の恋愛事情などもばっさり削除された無難な脚色だったと思う。
そもそも本作のテーマはそういうことではなく、宮部の生き様を現代の視点からどう捉えるかが大事なところではないだろうか。
軍国主義教育の中において、兵士達は死んでいくことを誇りに思うよう教育され、多くの人はそれに逆らえなかった。
命を賭けることと命を捨てることとは大きく違う。
生き抜くことに最大限の努力をした宮部の行為ははたして「勇気」だったのか、「臆病」だったのか。それを改めて考えてみるべきだと思う。
残念だったのは原作にはないラストと特攻の精神性についてのやり取りだ。
原作を面白く読んだ人はきっと最後のエピソードのドラマチックな展開に惹かれたはずだ。
そのまま終わればいいものの映画は原作にはない主人公の回想が長すぎる。
テーマパークで人気アトラクション待ちをしている気分でひたすら終わるのを待っていると、その間に感動が急速冷凍されていった。
しかもそこにいきなり飛んでくるゼロ戦!
ジブリの実写化か!
と突っ込まずにはいられなかった。
この映画の場合、妄想があそこまで現実化すると違和感がありすぎる。
また、特攻隊員はテロリストか否かという議論について、原作では生き残った元特攻要員の老人と姉の恋人の新聞記者との論争になるが、映画ではコンパの席上で、主人公と主人公の友人が言い争いになる。
これがはっきりいってリアリティーなし!
宮部と同世代の現代の若者の意識がどれほど違うか比較しようとする意図はわかるが、映画に出てきたような若者が、特攻に対して理路整然とした意見を持っているとは甚だ考えにくいし、特攻隊員の遺書をネットで見たという奴がテロリスト説を援護するが、特攻に興味もないのに偶然見たりするだろうか?
とってつけたような感じしかしなかった。
そもそも政治的思想のない人間をテロリストとは呼んではいけない。議論の対象にさえならない戯言だ。
だのに主人公はきちんと論破せずにその場を怒って出て行ってしまう。
特攻の誤解を解くこの場面はこんなぞんざいに扱っていいものではない。
原作の新聞記者とやりあう方がすきっとしてよかった。
もっと言うなら原作では伏せていた新聞社名を実名で登場させてほしかった。
百田尚樹は小説家デビューするまでは関西の人気番組「探偵ナイトスクープ」などの放送作家で、この放送局はテレビ朝日系の関西ローカル局だ。
原作の新聞社のモデルがどこかは知らないが、もし朝日新聞であったなら当然遠慮したであろうし、映画でも出資者(そう、朝日新聞はこの映画に出資している)を揶揄する場面は削除しようとするだろう。
どんどん邪推が発展してしまうが、もし万が一そうだとしたら情けない。
もちろん戦争賛美報道は、朝日新聞に限ったことではないが、同社も国民を欺いた悪の筆頭株主だ。
だからこそ過去を反省する意味で、自らスケープゴートとなり、マスメディアの影響の大きさを示すべきではなかったのか。
この場面がどうなっているかが、映画を観る前に一番気になっていたのだががっかりした。
自分達のやったことをきちんと伝え宮部のような勇気が持てなかった当時の臆病さをさらけ出す度量を見せてほしかった。