過ぎ去った愛 | ◆◆ ロイの書斎 ◆◆

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頭に浮かんだことをエッセイ風に書き綴っています

宮崎駿監督の「風立ちぬ」の長~い予告によると、1920代の日本は不景気、病気、貧乏、そして大震災が重なり生きるのに辛い時代だったそうだが、一方欧米は華やかな狂乱の黄金期。
生きとし生けるものは生を謳歌し、物が溢れかえっていた。
ウディ・アレン監督「ミッドナイト・イン・パリ」では小説家を目指す主人公が憧れのあまり1920年代のパリにタイムスリップしてしまうが、そこには彼が愛してやまない作家達がうじゃうじゃいて、その中にゼルダ夫人を伴ったフィッツジェラルドの姿もあった。

そのフィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー」は映画化され「華麗なるギャツビー」という邦題で1970年代に公開されたが、40年の時を経て今回バズ・ラーマン監督の手でリメイクされた。
近年リメイクのタイトルは、原題のカタカナ読みになることも多いが、今回もグレート(偉大なる)ではなく「華麗なる」のままだった。
だが、見終わってみると実は“華麗なる”男の中にあるイノセントな部分に焦点を当てたものであることがわかる。

1922年のアメリカ。
ニューヨーク郊外にある高級住宅地ウェスト・エッグで週末ごとに豪華なパーティーを開いてる大邸宅があった。
屋敷の主はジェイ・ギャツビー。
大金持ちであること以外その正体を知るものはいなかった。
小説家になる夢を諦め大学卒業後証券会社に就職したニック・キャラウェイは、その屋敷の隣りに引っ越してくるが、ある日何の面識もないギャツビーからパーティーに招待される。
それをきっかけにニックはギャツビーの友人となるが、華やかな仮面の裏に隠された彼の正体がわかってくるうちに危険を孕んだ悲劇の渦に巻き込まれていく。

バズ・ラーマン監督と言えばかつて斬新な解釈で現代版ロミオとジュリエットを撮ったが(そう言えば主演はデカプリオ)、同じ乗りっぽく(かどうかはわからないが)本作も時代設定が1920年代のままなのにもかかわらず現代的な雰囲気が漂っていた。
特に前半のパーティーシーンはスピーディーなカットの連続で、音楽も違和感を覚えるぐらいに今風のアレンジで、おまけに主人公のギャツビーの登場シーンに至ってはこれでもかというぐらいど派手な演出で、もはやコメディーの域に達していたが、後半は少し落ち着きを取り戻していた。
衣装はオリジナルもリメイクも見所の一つで、女性だけでなく当時の上流階級の男性ファッションがとてもカラフルなのがわかる。オリジナル版の衣装デザインはラルフ・ローレン、リメイクではブルックス・ブラザーズが担当した。
ほぼ同時代を描いたデパルマ監督の「アンタッチャブル」でのジョルジョ・アルマーニの衣装デザインと比べてみると、シャツの襟やネクタイの柄や結び目などにデザイナーの個性が現れていて面白い。

語り部となるニックが心を患い治療の一環として過去を回想しながら物語を綴っていくのはリメイクだけの設定で、その時代全体を俯瞰する効果があり、当時のアメリカが悪名高き禁酒法時代の最中でありながらそれが形骸化していたこともさりげなく説明されていて、予備知識のない人にもわかりやすい。

それにしてもギャツビーはなぜ自分の人生をかけてまでデイジーを愛したのか、これはデイジーがどういう女性がわかっていくとますます理解に苦しむが、フィッツジェラルドは自身の体験を小説に盛り込むタイプの作家で、ニック、ギャツビー、恋敵のトムにさえそれぞれに作者自身が投影されている。
デイジーはというとずばり彼の妻ゼルダがモデルだろう。
派手好きで浪費家、常に周囲にちやほやされていないと気が済まず、隙あらば別の男性と関係していたというセルダにフィッツジェラルドは振り回されたが、そんな彼にしかギャツビーがなぜデイジーを愛し続けたのかはわからないのかもしれない。

だが、ギャツビーの女性観はわからなくてもニックがなぜギャツビーに「偉大さ」を見出したのかはわかる。
ニックにとって外面的な“華麗なる”部分のギャツビーは、原作から引用すると「心から軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男」であるが、しかしそのなりふり構わぬ成り上がりぶりと手に入れた富はギャツビーにとって、もっと大きな野望を実現するための手段でしかなく、贅沢で華麗な暮らしそのものが目的ではなかった。
その本当の目的が1人の女性との愛を取り戻すためだけにあったことを知った時、ニックはギャツビーがこれからも2度と会うこともないと思うほどに純粋でロマンチックな心をもった男であることを知り、真のアメリカンドリームを実現した彼のぶれない生き方に偉大さを感じたのだ。

過ぎ去った愛を追い求めたために起こったギャツビーの最期はあまりにも悲しく孤独で、自堕落な生活から才能を埋れさせ財産も名声も失ったまま人しれず若くして亡くなったフィッツジェラルド自身の未来を占っているかのようでもあり、黄金期の後に迫り来る世界大恐慌をも予感させるかのような幕引きだった。