金東雲
1973年(昭和48年)7月、世界でも「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていた金大中は、日本の自由民主党(自民党)の有力なグループに招待され、講演するため東京を訪問した。当時のことを金大中は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人のヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。すぐに亡命者生活に入り、2、3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。
1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金大中は東京のホテルグランドパレス2212号室に病気療養のため宿泊していた梁一東(ヤン・イルトン)民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は九段下の交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連に至近の場所に位置している。
午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベータで地下に降ろされ車に乗せられた。ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、工作船(コードネームは龍金(ヨングム)号)で神戸港から出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。
金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる)アメリカの通報を受けた自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行し、ソウルで解放したとされている。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。
拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。
事件後しばらく経ってから警視庁は事件にKCIAが関与していたと発表。捜査員はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(変名で本名は金炳賛(キム・ピョンチャン))の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが金東雲は外交特権を盾に拒否。金東雲はKCIAの東京での指揮官と見られていた人物で、逃走に使われた車が在横浜副領事のものであったことも調べ上げていた。日本政府は金東雲に対しペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく特権に保護されて帰国した。これは日本が初めてペルソナ・ノン・グラータを発動した例であり、同時に2006年4月までは唯一の発動例であった。
警視庁によると「少なくとも四つのグループ、総勢20人から26人が事件に関与した」という。「ファーイースタン・エコノミック・レビュー」の記事によると「朴正煕と関係の深かった町井久之(鄭建永(チョン・ゴンヨン)山口組系東声会会長)がホテルのフロア-をほとんどすべて借り切りKCIAに協力した」と書かれている。「ニューズウィーク」東京支局長バーナード・クライシャーは本社に「町井久之はKCIAと緊密に行動を共にし事件の背後にいた。しかし日本のどの新聞もこのことを取り上げない。それは町井の組が自分達を誹謗する者を拷問し殺すことさえ厭わないからだ。」との記事を送っている。韓国政府が金大中を中傷する情報を日本の新聞社に流す役割をしていた柳川次郎(梁元錫(ヤン・ウォンソク)山口組系柳川組組長)も関与。日韓関連の著書が多いジャーナリスト五島隆夫によると「柳川は日本の暗黒街の他の人物と同様に児玉誉士夫(自民党の後援者・右翼の黒幕)を通じて韓国政府と接触をとった」という。
TODAY1 ∞ 中学の頃だったか?連日この報道があって、日本政府のふがいない対応にがっかりしたものだが、今回の屈辱感は、在日、反日のプロ市民、中共の機関紙、朝日新聞らを除き、ほとんどの日本人はなめられたもんだ・・・と怒っていることだろう!!
民主党政権になった日本・・・いよいよ次は沖縄が狙われ、とうとう日本沈没の日は近い!!