「氷雪の門」で新証言 毒薬は局内からも 真岡郵便局の集団自決
(08/17 08:01、08/17 08:15 更新)
第2次世界大戦敗戦直後、樺太・真岡(ホルムスク)郵便局で起きた集団自決は、服毒した青酸カリの出所が謎とされてきたが、元同僚が「工事用の持ち出しを目撃した」と初めて明かした。別の同僚は憲兵から渡されたと証言。厳重に管理されるべき毒薬が職場からも軍からも容易に流出し、結果的に自決につながったことが分かった。
集団自決があったのは1945年8月20日。旧ソ連軍が真岡に上陸し、女性電話交換手9人が青酸カリをあおり、死亡した。
目撃したのは、郵便局と同じ旧通信院の一組織だった豊原(ユジノサハリンスク)電話工事局真岡出張所の元所員で横浜市に住む宇田正勝さん(80)。出張所は電話交換機や電話線の技術部門で、工事用の青酸カリが常備されていた。郵便局から徒歩15分ほどの距離で、職員同士が頻繁に行き来していたという。
宇田さんによると、旧ソ連上陸前の17日、所長らが外勤中、先輩の女性事務員が薬品室の錠を開け、茶色の瓶から灰色の塊を出した。尋ねると、青酸カリと答え、ドライバーで砕いて新聞紙にくるみ「交換室へ持って行く」と部屋を出た。
宇田さんは言う。「日本の武器は竹やり。腹を裂かれ、女は乱暴されると教え込まれていた。男も女も自決は当然と思っていた。青酸カリを砕く思い詰めた顔は忘れない」。事務員は自決に加わらなかったものの、その後乗り合わせた引き揚げ船が留萌沖で撃沈され、死亡した。
TODAY1∞ ソ連の悪辣さを隠し、とにかく日本軍が関与して、悲劇は起きた・・・的にミスリードするいつもの手か??とも思うが・・・
たしか北海道新聞も、この映画に協賛していたような???
なんでこの時期なのか?ワカランが、映画を多くの人に見てもらうタメのネタとしては良い撒餌だな‘‘
http://www.tamanegiya.com/rosianozanngyakusei.html
戦争におけるソビエト軍(ロシア)の残虐性
平成18年1月31日火曜日くもりのち雨 ×「ベラ・ルーシー(白ロシア)」という名は、モンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき湖沼が多く、そこを避けたため、「レイプ がなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」のルーシーとなったそうな。支配地における強姦が将兵の職務であった十三世紀のモンゴル 軍の正統な継承国であるロシアはそれが現在にいたるまで不変の文化として残っています。そのロシアが中心のソビエト軍は無制限の強姦をくり返しました。そ れについては多くの証言が残っています。
「ドイツ人の女性は老女から四歳の女児に至まで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはあまりいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも二五〇人に暴行された少女に出会った・・・・」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著)
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は九万五千ないし一三万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた一〇万の女性のうち、その 結果死亡した人がー万前後、その多くは自殺だった。東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者一四〇万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられ る。全体ではすくなくとも二〇〇万のドイツ女性がレイプされたと推定され、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽるよう だ」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜)
そのソビエト軍の残虐さは我が国国民に対しても同じでした。火事場泥棒のように昭和二十年ハ月九日に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、満州に侵攻を開始し支那、満州、朝鮮にいた我が国国民に襲いかかりました。
「昭和二十年八月二十日頃であったろうと思う。鞍山から新京守備のために北上したので新京の街は北も南もよく解らないが、たしか終戦の日から数えて四、五日たっていたと思われる頃の出来事だった。・・・・
そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。十二、三の少女から二十ぐらいの娘が 十名程タンカに乗せられて運ばれていた。それはまともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫 に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞きとれない。次の女性はモンペだけをはぎ とられて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片目を開けたままであったから死 んでいるのかもしれない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。・・・・・。一週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無惨、残酷さに敗戦の みじめさを知った」(「されど、わが満州」p172~3)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛 苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて さらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩 に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」(「ある戦後史の序章」の中にある石田一郎の手記より西日 本図書館コンサルタント協会)
葛根廟事件
ソビエト正規軍が民間の日本人避難民を攻撃し、全滅に等しい被害を与えた事件である。葛根廟はラマ教の僧院で、興安南省と竜江省の省境に近い辺境にあっ た。当時、葛根廟から二十五キロほど離れた興安の街とその周辺に、約四千人の日本人が住んでいた。ソ連参戦の翌日にあたる一九四五年八月十日、日本人たち は南方に向けて避難を開始した。ハ月十二日、避難の遅れた二千人が、葛根廟駅から列車で奉天に向かうため、葛根廟をめざし、隊列を組んで興安を出発した。 ほとんど女性と子供であった。葛根廟が視野に入った、八月十四日午前十一時半、ソ連軍戦車隊と遭遇。突然、機銃掃射が始まり、あたりが血の海となった。生 存者はわずか、約百五十人だった。女や子供ばかりの隊列を、日本軍と間違うはずはない。まぎれもない非戦闘員虐殺事件である。
麻山事件
ソ連侵攻直後の同年八月九日、満州東安省鶏寧県庁は、県内在住日本人開拓団に避難命令を発した。それを受けたハタホ開拓団約一千名は、荷馬車で牡丹江に向 かった。一行は、日本の統制を離れた満州治安軍の反乱部隊とソ連戦車隊の双方の来襲を受け、「敵の手で辱められるよりは」と、婦女子四百余名が男子団員の 銃によって命を絶たれた。
そして、あの白衣の天使たちの悲劇 も起こりました。
どういうわけか、我が国の進歩的といわれる人々はドイツ、東欧、そして満州、朝鮮にてのソ連軍の人道及び国際法に反する蛮行に対して非難することは無い。