私は今、ひきこもりの期間を経てワラタネスクエアという居場所に通っているわけですが、ではそれでひきこもりが解決されたとは全然思っていないのです。このままワラタネスクエアに関わり続けて、後藤誠子さんやそこで知り合ったみんなと協力して、いずれ仕事にもついて…というのは違うなと感じています。親や社会はそういう「物語」を望んでいるのでしょうが、そんな簡単なことではない。現に今でも、すべてを投げ出してまたひきこもりたいなと思うこともあります。
斎藤環さんの本か何かで読んだのですが、東日本大震災の時に、ひきこもりの子どもが、津波が来るから逃げろという親の言葉を拒否して、家ごと津波に飲まれて行方不明になったケースがあるそうです。不謹慎かもしれませんが、親にとっては不幸なことだったかもしれませんが、逆にそこまで突き抜けてひきこもりを貫いたのは、ひとつの生き方だと思うのです。
私なんかはお人よしなので、他人の期待通りに先回りして行動してしまうので、そんなふうに親や周囲の期待を拒絶することができず、無理をして倒れてしまうことが今でも多々あります。親に勝てなかったので、そういうふうに親や周囲の期待をきっぱりと拒絶できるひきこもりに憧れさえ持ってしまいます。正直なところ、私も親に暴言を吐いて自分の思うままに生きるひきこもりになってみたかったという思いもあります。良い悪いではなく、それも生き方なのです。親にしてみればたまったものではないと思いますが。私はそこまで突き抜けて悟れていないので、中途半端に社会に関わっているだけです。
社会と関わっていると、どうしても「次は働けるよね」とか、「親がいなくなった時のことも考えないとね」という周囲の無言の圧力、社会が望む「自立への物語」を感じてしまいます。「うるせえ!俺にはそんなの関係ねえ!」と開き直ってしまえればいいんですけどね。繰り返しますがいい悪いではなく、それもひとつの生き方なのだと思います。
