私は盛岡にある不登校・ひきこもりの自立支援センター「ポランの広場」の立ち上げから参加しているメンバーです。もう20年以上前になるでしょうか。

 

私の記憶が定かではないのですが、立ち上げ時に不登校やひきこもりの当事者が一堂に会して、不登校やひきこもりの子供を持つ親御さんと質疑応答する時間があったのです。確か参加した当事者は12人だったと思います。

 

私たちは壇上に座らされ、親御さんの質問をマイクで答えることになりましたが、その中のある人が質問しました。「待つといっても限界がある。私たちはいつまで待てばいいんですか?」

 

私は答えに窮しました。「タイミングというものがあるので、そのチャンスを逃さないでほしい」とか曖昧に答えたと思います。

 

この質問は当時よく聞く言葉でした。まだまだ不登校やひきこもりの理解が今より進んでなくて、インターネットが普及し始めた頃なので、情報もありません。草の根の親の会だけが情報源でした。

 

当時は、「受容と共感」が叫ばれていた時代で、とにかく当事者の気持ちに寄り添って待とうというのがセオリーだとされていました。

 

ただ、親としては待てと言われても時間はどんどん過ぎていくし、親が死んだ後はどうするんだという焦りもあり、どの親御さんも待つだけでいいのかと疑念を持っていたように感じます。

 

「私たちはいつまで待てばいいのですか?」

 

当時の私はこの問いかけに対する答えを持ち合わせていませんでしたが、今ならこう答えます。

 

「待たなくていいです。子供をどうにかしようとせずに、放っといてあなたの人生を生きてください」

 

放っておくというのは少し乱暴で語弊がありますが、誠子女史が普段言っている「やさしく諦める」ということです。どうにかしようと思うから辛いのです。

 

この結論は誰か偉い学者や専門家が言ったのではなく、不登校やひきこもりの当事者たちの親御さんが自らの苦しい経験をもとに到達した境地だと思います。言葉は違えどみんな同じことを言っています。

 

もっとも、今現在は不登校やひきこもりの情報も多く、「受容と共感」というセオリーもとうに古くなってしまいましたので、今こんな質問をする人もいませんが、ちょっと昔心に引っかかったことに今の自分が答えてみました。