役行者様(えんのぎょうじゃ)をご存じですか?
飛鳥時代に実在した、修験者の祖です。
地図のない時代に日本中を旅し、神様のいる山を開山して回ったという…レジェンド&パイオニア
迫力がすごい!
奈良県の當麻寺、石馬寺にいらっしゃいますよ
先日、役行者様と話していて「結局そういう事なんだよね」と納得することがありました。
自分らしく生きる。
私はこれが非常に苦手です
誰かの猿真似で生きるとか
誰かの人生をトレースするとか
そういうことはしませんが…
「自分らしく生きる=わがままなのでは?」
三十数年間、そんな風に思っていました。
実際、私の身の回りには、
自分のために、他人を使い捨てる人
自分のために、具合が悪い人を借り出す人
自分がやりたくないことを、人に押し付ける人…
こんな人間がちらほら家族、恋人、同級生、職場の人…いろいろいた
そういう方々が決まって言うことは、
「これが俺らしさだから」
「私らしく生きるためだから」
「らしさ」の一言。
他人を傷つけたり、犠牲にすることが「らしさ」なの?
なら、そんな「らしさ」はいらない!
「らしさ丸出しで人を傷つける、この人達と同じレベルでいたくない!」
そんな一心で、私は自分の「らしさ」をぎゅうっとしてきたわけです
らしさ封印!
役行者様と「修行とはなんぞや」という問答をする中で、
「自分らしく生きること=わがままではない」
そんなことを教えていただきました
例えば、
「私って毒舌だから~」
「正直にものを言っちゃう人だからさ~」
毒舌や歯にもの着せなさを「自分らしさ」と思っている人がいます。
オバタリアンにありがち?私もだね!
受け取り方は人それぞれなので…
それを楽しむ層もいれば、「うわ!そこまで言う?!」とドン引きする層もいます。
毒舌、いいんですよ?
マツコ・デラックスさんとか、いとうあさこさんとか…
単語は毒だけど、言葉の組み立て方によって他人を慮っている正直(毒舌)は、笑えますもの
でもさぁ…。
「歯にものを着せぬ言い方が他を傷つける(可能性がある)のなら、それって自分らしさじゃなくて単なる暴言じゃない?」
そう思っちゃうんだよねで、「う!」となる
この記事と繋がることです
「もし誰かを傷つける自分らしさなら、その自分から変えていかなければならない」
「誰も傷つけない自分らしさは、精神性を磨いてい手に入れるしかない!!」
誰も傷つけず、不快にさせない「らしさ」を磨くには、心の修行が必要です
その修行は、
誰かと自分を比べる横並びの修行
横一列!お隣と同じが楽ちんよ!のイメージ
ではなく、
自分で決めた頂に向かっていく縦の修行。
山登りのイメージ
図らずも、今は風の時代
前年までの地の時代は、「人より多く持つ者が豊か」という性質の時代でした。
これは、人と自分を比較する横並びの時代です。
一方で風の時代は「精神性の高さが豊かさ」という時代。
精神性の高さを得るには、
色々な経験を積んで多様な感情体験をしたり…
固定観念に縛られず、色々な価値観の人を受け入れたり…
自分で自分に向き合う縦の修行しかない!他人と比べない!
難しいね…
でも、最近気づいたのですよ…。
団体競技系スポーツ漫画の登場人物は、必ず縦の修行をしているなって
『ハイキュー!!』(バレー)
『スラムダンク』(バスケット)
『あさひなぐ』(薙刀)←団体戦
「なんで自分はこんなに弱いんだ!」
「なぜ思うようなプレーができないんだ!」
どの主人公も、泣いて怒って苦しんで…「強くなった自分」の頂に到達できるよう、コツコツ努力します
1人1人が精神性を高めることで、自分も他人も傷つけない「自分らしさ」を発揮できるようになる。
もし世界が高い精神性を持つ100人の村なら...
こんな本もありましたね
戦争も差別も飢餓もなく
選民意識も優劣意識さえなく
奪わず、盗まず、けなさず、けり落とさず
与えあい、補いあう
そんな世界になるんじゃないのかな。
そんな世界の住人を、私たちは神様と呼んでいるんじゃないのかな
「それは誰にだってできることなんですよ」
校閲をお願いしたところ、神様からそう書き加えるよう言われました。
誰だって、他人を傷つけない自分らしさを磨くことが出来る!
他を傷つけないように、他人に迎合するだけではいけない。
磨くのはとても大変だけど...
自分らしく生きることは素晴らしいことです!
頑張るほどに、神様たちからのたくさんのエールがありますよ!