薨去された師の御誕生日に

日生劇場で、【天保十二年のシェイクスピア】を拝見致します。

同時代に入り込む為、

YouTubeのチノポスで、師が語られた【天保に関する箇所】ブログで、まとめてみます...

よろしければ、お付き合いくださいませ。

因みに、題の日付は学んだ日です。

 

では、本題へ...

御衣黄の覚書から、私なりに記します。

*詳細が気になった方は

著書やYoutubeを探して

拝見してくださいね。

竹内の日本史書いて覚える(P116〜P118)参照

 

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・明和事件に関わった…とみなされた、人物 

 

【竹内式部】

 

宝暦事件(つまり、尊王事件)に失敗し、京都から追放。

原因は...

三十人の弟子の一人(西洞院時名)が

桃園天皇に「今日の授業」と題し、毎日伝達した

事である。

それを、京都所司代 松平 右京大夫 輝高が

一学者が天皇を操っている...危険と判断。

いつの間にか、

桃園天皇は竹内式部の弟子となっていたのだ。

 

宝暦事件で、同様の処分を受けた

「藤井右門」とは、別れた。

その後、竹内式部は

神道を極めるべく、伊勢に向かった。

本居宣長に会いたかったのではないか...

と師は推察する。

 

明和事件の全貌がバレ、

山県大弐と藤井右門は死刑。

 

竹内式部は関係ないが、流罪。

 

式部は、老中に昇り詰めた、輝高を前に

今から百年後に、王政復古する。そして、天皇家の時代を創る。その九十九年後、私は生まれ変わる。

と言い放った。

 

お読みいただいた方、ありがとうございます✨️ 

 

ということは...

師は「竹内式部」の生まれ変わりだったのですね。

へ~。

 

・・・💧

 

歴史を垣間見ると...

「天皇=象徴」とするのは

必ずしも適切と云えない

様な気が致しますね。