昨日(3月6日)、書いていた記事を
漸くアップします。
日本的語呂合わせ(言霊と言えるかな?)だと...
ミロクの日でしたね...
前回に引き続き
先生の著書(八代将軍・徳川吉宗)から
興味深かった箇所(P62〜65、P116〜P117)を
御衣黄なりに、まとめます。
*現在、拝読は終えています...
今、単一の言葉で、閃きが降りてきていて
情報の精査が追いつきません!
文章に繋げるのが、キツイ...(泣)
・・・💢
お菓子のご褒美があったでしょ...
桔梗屋さんの信玄餅よ…
フフフ.....(笑)
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徳川吉宗は、紀州藩主時代、「町廻横目」を新設している。
目的は「倹約令の徹底をこっそり調査するコト」であった。
思いもよらぬ中での就任だった為
気心の知れた家臣が少なかった。
吉宗は、自身の耳に
正確な情報が入ってくるコトを望んだ。
そこで、同公は、幼少期、
野山を駆け巡って遊んだ、信じられる友を
町廻横目のメンバー(総勢20名)に抜擢した。
また、これとは別に「芸目付」も新設...
こちらの目的は
「家臣の武芸の習熟度をこっそり調査すること」だった。
つまり、双方とも、隠密(スパイ活動)ですよね。
裏では...他の藩に越境して
情報収集をしていた様ですよ...
・・・。
吉宗は将軍に就任した後
「町廻横目」と「芸目付」を元にした、
「お庭番」を設置。
全国各地で、謀報活動をさせます。
因みに、紀州藩の出身者のみで
構成されていました。
最後まで信じられたのは
同郷の人間だった様です…
吉宗は、情報に価値を見出だしていたのですね。
同公が将軍職を辞した後も
「お庭番」は幕末迄、存続します。
正直言うと、給料は安価だったそうです。
でも、自分達が幕府を支えている
という誇りを持って、職務遂行していました。
お読みいただいた方、ありがとうございます✨
いつの世も、ヒトは、他人を信じる…
ことの難しさを感じていたのですね…
こういう業が解消される様な祈りを
寛永寺で、します…
お早めに伺える様、準備します(^^;
現在、先生の「吉田松陰を語る」を拝聴中です。