最近、茶に関して、ブログを記載していた。
その続き。
いつもの様に、「茶」を複数の辞書で調べることにした。
字通によると
茶は古い字書にみえず、その初文は恐らく荼とある。
荼の声符は余
余は把手のある細い手術刀。
これで、膿漿を盤(舟)に除き取るコトを艅。
ここまで調べたとき、茶と関係ないじゃーん!が
正直な感想だった。
話は変わりますが、余はナムチ゛とも読みます。
ふと、古事記の宇宙(P166~P175)を思い出しました。
大国主命=大貴己命(合計で五つの名がある神。古事記参照)
と考えるそうです。
また、同ページには、マレビト信仰についても記載されています。
初めて拝読した時は、どうしても今の感覚で捉えてしまうので
理解し難かったです。
別名の葦原の色許男に気付き、そういう風習があったのは事実なのだ、と思いました。
大貴己命は、赤裸になり、泣いていた因幡の白兎さんに
「蒲の穂でくるむと良い」と教えた神ですね。
同神は、医学、薬学の知識があったのでしょうね。
この様に考えていくと、余が表していることも分ってきましたよ。
お読みいただいた方、ありがとうございます✨
昨日、森羅万象のアクトさんの詩を拝読していた時
ミスターチルドレンさんの「優しい歌」の歌詩が蘇りました。
鏡の中の男に今
復讐を誓う
鏡は、かがみ。
そこから、我(が)を取れば、かみ(神)
神社の本殿に鏡が祀られている理由です。
鏡のない時代は、水を鏡としていたそうです。
いつも我とは何か?について考えるのですが
まだ、答えは見つかっていません。
思い込みによる暴走かな。
桜井和寿さんの意図について、
取材確認はしておりませんのでご了承ください。
単なる私の閃きです。
ステキな詩をありがとうございました!