被災地への夢と被災地からの夢  気仙沼ダッチのブログ

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2011.9.11石巻中瀬にかかった一瞬の虹、その時自分の夢が明確に見えた。たどり着きたい。
富士夢まつり2012 旧暦七夕1万人、頂上に行こう

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12/11 亘理いちごっこ HOME COMING DAY に行ってきたばい。
仮設住宅に入居していない被災者には、支援も物資も情報も、届きにっかけん、そのような方に支援物資ば提供するのがHOME COMING DAYの目的ばい。
ダンボールの山んごとあった。これでも物資の全部じゃなかとって。
http://flat.kahoku.co.jp/u/t-sawada/crjh8PzMQmGsKpfny2H3/



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全国から寄せられた支援物資の数々…
ひとつひとつ、丁寧に梱包され、お手紙が添えられ…
東北の厳しい冬を気遣う文章や、温かい励ましの言葉。
折り紙が一緒についていたり、
とってもいい香りの、におい袋が同封されていたり…
温かい気持ちのこもった物資たちの…
山!
責任重大+作業も膨大だ
http://watari-ichigokko.blogspot.com/

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戦乱から平和へ駆抜けた二人
成実(しげざね)と景綱(かげつな)



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信長はじめ群雄割拠の戦国時代、天下を得るには遅く生まれすぎて、しかし、死ぬまで天下取りの夢を見つづけた伊達政宗公。
幼少時からの苦難を克服した独眼竜政宗の才気煥発ぶりを、秀吉と家康はやや尊敬しながらも、油断の出来ぬきょう雄として恐れ、警戒した。
その政宗公の生涯を支え続けた二本柱が、片倉小十郎景綱であり、政宗公の一つ年下の従弟で、輝宗から次代のブレーンたるべく、政宗の学友として一緒に教育を受けて育った伊達藤五郎成実であった。
政宗の軍略には、知恵と勇気の景綱と、伊達家随一の猛将、文武に大略の人成実が参画するのが常であった。
水のように冷静な知の人景綱、炎の闘志で負戦を逆転する成実、この二将はまことに好一対、好対照、しかも親密にして、まさに陰と陽の関係で政宗を支えた。

政宗公成人の式である元服の時、景綱は剃刀の役として政宗の前髪を切りおとし、成実は宝剣をささげもつ役を行っている。
又後年、政宗公大遠忌(だいえんき)の時、二人の位牌はお相判(しょうばん)として、一緒に供養されている。
政宗より10歳年上の景綱は、若くして政宗のもり役となったが、政宗幼少期の並はずれた気おくれや臆病な性格を自分を信ずる使命感に輝く少年にかえたといわれる。
又、古来道路が発達せず天下に縁なき奥羽の天地から、京都へかけ上る夢と計画を政宗に論じたといわれる。
単なる主従関係にとどまらない政宗、景綱の間に生涯を通じて流れるものの序曲である。
景綱は12年間亘理を治めてから、慶長7年12月(1602年)に白石城に移った。
(一国一城の主というが、徳川時代になって二城がゆるされたのは、青葉城と白石城の仙台領だけであった。)

入れ替りに成実が亘理に入府する。奥州から中央へ、そして中央から奥州への二つの出入り口を固める政宗の戦略でもあった。
成実は、永禄11年(1568年)信夫郡大森城で生まれた。
父は伊達植宗(たねむね)の三男実元、母は伊達晴宗の二女、仙道人取橋の合戦以来成実は、政宗の経験するすべての先頭の中心にいて武功をたてた。
特には、会津葺名(あしな)氏攻略法を建議実践、政宗を奥羽の覇者に押し上げた。
そして政宗の小田原参陣の時には、豊太閤と戦うべきだと主張するほど意志が強く心が豪壮で、知略に優れた勇武無双の士と謳われた。
豊太閤の朝鮮出兵で上洛の際、秀吉から完成したばかりの伏見城にまねかれた伊達の干城、炎の闘将成実は、綺羅星(きらぼし)の如く大々名居並ぶ中で、臆せず、弁舌さわやかに用兵議義を応酬し、秀吉らをして、「まこと文武の誉れよ!」と激賞せしめ、以後秀吉の囲碁や茶の湯の相手を命ぜられることとなった。
又朝鮮への出兵に当って京都から肥前名護屋へ向う際の、政宗、成実以下、伊達家の意表をつく華かないで立ちには、さすがの京童も仰天して「伊達者」、つまり「伊達男」と言い合ったという。

成実は朝鮮でも大功を上げ、秀吉から伏見に邸宅を与えられており、まさに武門伊達の象徴であった。
その生涯を通じて、「一点曇りなき青空のような主家への忠誠心」の成実だが、途中、政宗公との不和が囁かれて高野山に入るなど約六年間、謎の遁世(とんせい)生活を送っている。
なぜだったのかは本人も語っていないが、能弁能筆の士が沈黙を通しきったことこそ、出奔の秘密を雄弁に物語っているのではなかろうか?。
この間に成実は、家康や上杉景勝から好条件でスカウトされているほどである。
亘理入府後には、大阪冬の陣、夏の陣に参加、精強をもって鳴る山形最上氏57万石領地改易の時には、接収役として無血開城、又江戸城修築の監督や幕府への特別使など、政宗の名代や藩の代表者として各所に出向いている。
ことに江戸城中に於ける成実の奥羽軍談には、三代将軍家光も、「天晴(あっぱれ)な武将」と褒めほめ讃えたという。
亘現伊達氏は、禄高二万四千石と仙台領内の最高禄を支給されている。
城下町の町づくりは、従来の亘理氏や片倉氏の基盤の上に、城の周囲より多くの家臣を集めると同時に、町民も集めて殖産振興を計った。
現在の五日町は、5のつく日に市が開かれた名残であり、何々小路といわれた所は、武家屋敷通りであった。
又亘理の火事は、秋から冬にかけての乾燥季節風期に多いが、大火を避けるため、南北に長い街並を北東から南西方向へ向うように配慮するなど、現在の亘理の骨格を形作った。
多忙な中にも成実は、当時の戦争状態を描いた貴重な資料である「成実記」全4巻のほか、「政宗記」全12巻「名語集」上下巻等も執筆、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」に至る迄、史実を知るのに多大の貢献をしている。
そして又、奥羽の覇権をかけた会津との戦いに勝利した夜宴で、乱世の戦国大名にしては稀なほど歌才にすぐれた政宗公との歌合戦で、私達郷土の勝閧(かちどき)の唄「さんさしぐれ」をつくっている。
成実はまた、部下に対する思いやりが深く、人の過ちに対しては、寛大な徳を備え、「私事をもって公事を害せず」ということを身をもって実行した人であった。
不幸にして妻子には縁の薄い人であったが、政宗の九男宗実を養子に迎えている。

天保三年(一六四六年)六月四日逝去、七九才であった。
葬儀は雄山寺(現大雄寺=亘理領内曹洞宗14ヶ寺の本山)に於て盛大に執り行われたが、この日成実公を追って四名の家臣が殉死している。
そして歿後ほぼ50年毎に、公の遺徳を偲ぶ遠忌が執行されてきている。次の当り年は一九九五年である。
明治八年旧領内の領民は、成実公の遺徳を後世に伝えようと神に祀ることを宮城県に願って許可され、御舘あとに亘理神社を建て、祭神の神号を「武早智雄命(たけばやちおのみこと)」として奉っている。
このことも稀なことである。
わが郷土亘理に、時を接して住んだ成実と景綱、この二人に満ち溢れる真情と英智と気概に共感を覚えると共に、古へ、平泉藤原氏の始祖清衡の生父亘理権大夫経清の活躍、明治維新時に於ける伊達邦成公、田村顕允公の決断と伊達紋別の発展を想う時、亘理人としての誇りと、明日の亘理のために強い勇気を感ずるものです。

一九八七年八月 株式会社 福井商店


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東條英機元首相公的遺書より




辞世


我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば


さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき


大和島根 って何だ、辞書で調べれば、 日本の国土、 大和の国、とか言う意味らしい。
(37で)初めて この句を読んだ時 泣けました。


太平洋戦争の歴史は、今になって考えると、高校日本史レベルでは 何も知らなかったということになる。


表面的な知識の中でも、真実と捏造が入り混じっていた。


東條由布子著"一切語るなかれ" の中には 素晴らしい 日本人像 が描かれていた。


"今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。"


自分は当時の歴史を 詳細に、正しく 知りたいと思った。


こんなに素晴らしい精神と文化の時代だったことに、初めて気付いた。



被災地への夢と被災地からの夢  気仙沼ダッチのブログ-東條英機

若き日の東條英機元首相  


アメブロでは "縛りなし" でブログを作りたい。
情報拡散されるべき 記事のなかで トルキスタン の記事を今日投稿する。


インターネットが普及されなければ 絶対に知ることのなかった記事の一つだ。


世の中が狂っていない とは思っていないが、
その世の中で、自分が情報操作 されていたことに気づいた。
物理的には地球が太陽の周りをまわっていると教えられる そういうレベルの出来事に 37で遭遇した。
太陽の周りを地球がまわっているといっていた連中は 周到なる悪意を持って 洗脳していた。


"テロリストの汚名をきせ、虐殺する" "知らなければ関係なった" が "知った以上、止めるのが 人の道である。"



Q.5 なぜこんなに酷い事なのに日本で報道されないの?

A   日中記者交換協定 の影響です。   

日本は日中国交正常化の際、日本の中国に対する報道に条件がつけられました。


一、中国を敵視しない

二、二つの中国を造る陰謀に加わらない

三、日中国交正常化を妨げない


    この3つの条件が拡大解釈されて中国に都合の悪いことはとにかく報道が出来なくなっているのです。



櫻井よしこ のブログより 『中国核実験』の惨状

1964年から96年までに東トルキスタンのロプノルで46回の核実験が行われ、少なくとも19万人以上が死亡、129万人以上が被爆したことが発表された。 ロプノルでの核実験は、総爆発出力20メガトン、広島の原爆の約1,250発分に相当するという。被害の凄まじさは想像を絶するが、だからこそ、中国政府は一切の情報開示を拒んできた。


11月25 日 快賊船  『P.s』 ~for you and for me~ を見に行きました。


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快賊船  は 三度目です。 ブティストホール も三度目

この人知ってる !   これだけの舞台 ができるっていいですね。


シナリオは 前回に続く 原爆 の入ったストーリー


被爆して苦しむ話が主なんだろうと思ったけど、


メインは 戦後すぐの 朝鮮人差別  主人公は 最後に出兵 しました。


予想外のシナリオでした。


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人が頑張っているのを見ると  自分も頑張りたくなります。