2020年8月15日
岐阜県中津川市 美濃国 苗木城跡
美濃国 苗木城
みののくに なえぎじょう
別名:赤壁城
歴史
鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として恵那郡を統治した地頭
遠山氏の初代遠山景朝の長男遠山景村が、 仁治2年木曽川北部の所領確立のため、
木曽川左岸の西山戸から右岸の那木津戸に進出。
那木津戸が当時、那木(苗木)と呼ばれた所で、遠山氏による木曽川北部進出の始まりとなった。
元弘年間、遠山一雲入道、遠山景長親子が、高森山に砦を築く。
元弘~建武年間の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築き宗良親王を迎える。
文明5年10月、小笠原家長と木曾家豊が伊那谷と木曽谷から東濃に侵攻する。
大永4年3月、小笠原定基の家臣高柴景長が神明神社の造営を行なう。
大永6年に遠山一雲入道昌利が植苗木から高森山に館を移す。
天文3年、松尾小笠原氏の本拠松尾城が陥落、小笠原定基が甲斐の武田氏のもとに逃れ小笠原氏が撤退。天文11年11月、遠山景安が笠木社に梵鐘を寄進する。
天文21年、岩村遠山氏の遠山直廉(遠山正廉)が苗木の遠山景徳の養子となり、
手賀野(現在の岐阜県中津川市手賀野)に阿寺城を築いて入り、
後に高森山砦を拡張し苗木城主となった。
天文年間に遠山正廉が高森に苗木城を築く。
天文24年、木曾氏が甲斐の武田氏に降る。
永禄3年5月、苗木勘太郎が桶狭間の戦いに出陣する。
永禄8年苗木勘太郎の娘(織田信長の養女)が武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぐ。
永禄12年に、遠山直廉が武田氏からの指示により飛騨国益田郡竹原へ侵攻し
三木氏と大威徳寺の戦いを行い大威徳寺を焼き勝利したものの矢傷を負った。
永禄12年6月遠山直廉、廣恵寺に禁制を下す。
慶長4年森氏 信濃川中島に移封される。
川尻直次が苗木城主となり、関治兵衛が城代となる。
慶長5年遠山友政は徳川家康の命を受け苗木城を攻略し、
徳川家康から苗木領を安堵され、後に苗木藩が成立する。
明治2年苗木藩主の遠山友詳が版籍奉還により藩知事となる。
明治4年廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、苗木県となる。
明治17年7月7日華族授爵ノ詔勅により、遠山友詳は子爵となる。
1981年、国の史跡に指定された。
2017年4月6日、続日本100名城(142番)に選定された。
案内
本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っている。
天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが大きな特徴。
菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残る。大手口道は長さ500m、
高低差150mあり「四十八曲り道」といわれている。
建築物としては、大手門の扉と柱が残り、中津川市苗木遠山史料館にて展示されている。
岐阜県中津川市苗木