7月5日。キューバ3日目。
「革命博物館」へ行ってみる。
あらためて、キューバは”革命”によって再生した国であることを実感。
キューバについての知識といえば、カストロ、チェ・ゲバラといった革命家によってアメリカから(実質的に)独立した社会主義国であること、教育や医療は無料であることなど大まかには知っていたものの、革命に至るまでの歴史や経緯、キューバ革命以降の制度についてなどは、詳しくは知りませんでした。
この国にいざ行くとなって、ネットや記事などで調べだしたのが本当のところ。
ここで、キューバについて、そしてチェ・ゲバラについてあらためて記しておきます。少し長いですがお付き合いください。
※参考文献「地球の歩き方」「旅学」、(ネット)「ウィキペディア」他個人ブログなどから寄せ集め
(国土)
”カリブ海の真珠”といわれるキューバは、フロリダの南約145キロメートルに横たわる東西に延びる細長い島。全長は1250キロメートル、最大幅1919キロメートルもあり、面積は日本の本州の約半分にあたる11万1000キロ平方メートル。
キューバの国土は、南北アメリカ大陸、及びヨーロッパとの間を結ぶ航路と接し、交易を行う上で恵まれた位置関係にある。そのため、キューバは古くから通商の要衝として経済的に栄え、かつては「メキシコ湾の真珠」とも呼ばれた。
(歴史)
1492年10月27日、コロンブスは第一次航海時にキューバに到達した。当時島には先住民のインディヘナがいたが、スペイン植民地化が進むとともに滅亡の道をたどっていった。スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷産業を盛んにし、キューバはスペインと中南米の拠点として著しく発展を遂げることとなる。
1762年にハバナはイギリス領になるが、翌年フロリダと引き換えにハバナは再びスペイン領となる。
19世紀初め、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、キューバは砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになり、キューバ国内では次第に独立の気運が高まってくる。
1868年10月10日、第一次独立戦争勃発。1895年~98年にかけてはホセマルティを中心として、第二次独立戦争が起こる。混乱の中1898年2月に米西戦争が勃発。米側の勝利の結果、1989年12月10日、400年にわたるスペインの支配下からキューバは独立、アメリカの軍政下に入る。
1902年5月20日キューバ共和国成立。1920年の第一次世界大戦はキューバの砂糖産業を再び盛り上げ、当時のハバナはアメリカ人から「カリブ海のモンテカルロ」と呼ばれ憧れの町だった。
1952年軍事クーデターによりバチスタ政権が樹立。翌53年、フィデロ・カストロは150名の同志とともに、バチスタ政権を倒すためにサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃。しかしカストロは捕らえられ「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と有名な自己弁論を行った。その後恩赦で出獄しメキシコに渡った。1956年12月にカストロは再びチェ・ゲバラなどの同志とヨット「グランマ号」に乗りキューバ上陸を図るが事前に発覚。山中に逃げ込みゲリラ戦を展開しながら勢力を拡大し、1959年1月1日に未明、バチスタはドミニカ共和国へ亡命。ここに革命軍が勝利を果たす。
カストロ新政権は政治の民主化を唱えるとともに、医療の無料化、教育の無償化、公共施設の是正、土地の国有化、企業の国有化などをすすめ、社会主義国として多くの問題に直面しながらも独自のスタイルを守り続けてきた。
(現政府の政策により、ラテンアメリカ地域特有の、スペインの植民地時代から続いてきた人種に基く伝統的階級社会は破壊され、多くの白人支配層や中産階級がアメリカ合衆国のフロリダ州や西ヨーロッパに亡命した)
しかし、ソ連邦崩壊後は孤立した状態となり、アメリカの経済封鎖は極度な物不足へとキューバ国民を陥れた。一時はどん底ともいえる状態だったが、ドル獲得のために力を注いできた観光産業が実を結び、現在はカナダやヨーロッパ諸国からの観光客で町は活気を取り戻している。
2008年2月19日、フィデル・カストロ国家評議会議長、退任。軍の最高司令官も退任する。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。
ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。
(教育)
キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。そのため、政府は農村における文盲率の大幅な低下や、教育と医療の無料化といった成果を挙げることに成功している。
キューバでは、カストロ議長の「アメリカに半植民地にされたのはアメリカのプロパガンダを国民が見抜けなかったから」という考えから、教育に国を挙げて力を入れている。初等教育は義務教育となっており、小学校では20人学級やサブティーチャー制を導入している。
2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は、全体で99.8%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、チリと並んでラテンアメリカ最高水準である。また、国民の大半は高校を卒業している。
(医療)
プライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。医師の数が国民165人当たり1人と世界一多い。
乳児死亡率は1,000人当たり6.5人(日本は1,000人当たり2.8人)。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。
医学部は無料で、留学生(アメリカ人も含む)も無料である。被災地への医師の海外派遣も積極的に行っている。
(通信とメディア)
通信社は国営のプレンサ・ラティーナに一元化されている。国内で最も読まれている新聞は、キューバ共産党機関紙のグランマで、スペイン語と英語のウェブサイトを運営している。
キューバは、今でも“キューバ共産党の一党独裁下にあり言論の自由に制限がある”とされる。これがアメリカ政府によるキューバ制裁継続の一因となっている。
フランスに本部を置くジャーナリストの国際的非政府組織、「国境なき記者団」が2005年に発表した「世界報道自由ランキング」では、キューバのランクは調査対象の167カ国・地域中161位にとどまり 、政府の意向に沿わない独立系ジャーナリストの逮捕・投獄・虐待が行われていると指摘されている。
2006年5月にはアメリカに本部がある国際非営利団体「ジャーナリスト保護委員会」が発表した検閲国家ワースト10のリスト」でキューバが7位に挙げられた。また、国外からの情報を遮断するためにネット検閲が導入され、インターネットの使用を許可制にしている。
(チェ・ゲバラについて)
ゲバラについては、下記個人(日本人)のサイトから抜粋させていただきました。
2000年、彼(サイトの筆者)はゲバラのお墓参りをするためにハバナに船で入稿し、30時間と言う限られた時間内でお墓を探し出しお参りを果たすという、まさにゲバラファンの熱い男性。
彼の文章はとても読みやすく共感したので、引用させていただきました。是非彼のサイトものぞいてみてください!
↓
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/guevara.html
「武力による革命には安易に賛同できないけれど、「人間による人間の搾取をなくしたい」というゲバラの気持ちは良く分かる。」
チェ・ゲバラという漢(おとこ)
※上記サイトより引用。一部追加している箇所もあります。
チェ・ゲバラ(キューバではゲバーラと言う)の本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。1928年6月14日、アルゼンチンに生まれる。つまり、彼はキューバの英雄となったアルゼンチン人だ。“チェ”はあだ名で、意味は『心にくいヤツ』『(掛け声の)よっ、大将』。
19歳の時にブエノスアイレス大の医学部に入り、25歳で博士号(医学博士)をとっている。
彼は在学中に約1年間ラテンアメリカ全土をオンボロのバイクで放浪し、南米社会の極端な貧富の差に社会の矛盾を感じ、どう生きるべきか思い悩む。
特にインディオをはじめ、各地で少数民族が不当な弾圧を受けている現実に打ちのめされた。
『その頃私は医者としての個人的成功を夢見ていた。しかしこの旅を通じて考えが変化した。飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分だ。社会の構造そのものを変革せねば。病人の治療より重要なことは、病人を出さないことだ』
彼は貧困層を取り巻く劣悪な住宅環境や、深刻な栄養不足を改善することこそが、自分の最優先課題だと考え始める。
医学部を卒業後、ペルーの診療所に行くはずが途中でグアテマラの内戦に遭遇。グアテマラでは左派政権が大地主の土地を没収して貧しい農民たちに分配したが、これをきっかけに富裕層や米国に支援された反政府軍が攻撃を開始。ゲバラはグアテマラ政府軍の一員として戦うが敗北しメキシコへ脱出する。そこで運命的に出会ったのが、生涯の盟友となるキューバ人の青年弁護士、フィデル・カストロだった。
カストロはキューバ国内で反政府運動に参加していたが、厳しい弾圧を受けてメキシコに潜伏していたのだった。
キューバ革命に参加
1950年代のキューバは米国の属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街となっていた。しかもキューバ政府の要人は独裁者バティスタ将軍を筆頭に米国にゴマをする者ばかり。巨額の黒い金が支配層間で動いていた。
そのバティスタ軍事政権を打倒する為に、カストロは武装した同志82人と今まさに祖国に戻らんとしていた。情熱的に巨悪と立ち向かうカストロの生き方に感銘を受けたゲバラは、軍医として彼らに同行することを決意し、1956年12月、キューバへの密航船に同乗した。
ときにカストロ29歳、ゲバラ28歳。
ところがこのキューバ上陸作戦は事前に情報が漏れており、海岸にはバティスタの政府軍がズラリと待ち構えていた。上陸時の激戦でメンバーの4分の3以上が死に、付近の山に逃げ込んで助かった者はわずかに17名。それも武器と食料の大半を失って…。
普通なら絶望してしまうところだが、この時にカストロが語った言葉がすごい。
「俺たちは“17人も”生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」
戦車や戦闘機で武装した2万人の政府軍に対して、17名の革命軍でどうやって戦うのか。さすがのゲバラも、カストロが悲嘆のあまり発狂したのではないかと真剣に心配したという。
しかしカストロには、本当に勝算があったのだ。
キューバ人の大半を占める貧農は、普段から徹底的に支配層から抑圧されていた為、戦闘が始まれば必ず自分たちを支持すると確信し、事実そうなった。
これには、彼ら革命軍が農村で食料や物資を調達する際、必ず農民に代金を支払ったことも大きな要因だ。略奪が日常茶飯事だった政府軍とは決定的な差になった。
また、医者のゲバラは戦闘が終わると自軍だけでなく、負傷した敵兵にまで必ず治療を施した。こうした仁義話はキューバ全土にすぐに広まり、政府軍の中からもゲバラたちの仲間に加わる者が出た。
古今東西のゲリラ戦を研究し尽くしたゲバラは、政府軍の意表をつく様々な作戦を立案し、最少の人数で最大の戦果をあげ続けた。
一方、カストロは情報戦の重要性も熟知しており、積極的に内外のジャーナリストに取材をさせた。これでいくらバティスタが隠そうとしても革命軍の連戦連勝ぶりは民衆に伝えられ、ますます支持を得たのだった。
上陸から2年後、サンタクララがバティスタ軍との最終決戦の地となった。ゲバラは7倍の敵に対し、兵力の少なさを悟られぬよう複数の地点から攻撃を開始。また敵の退路を絶つ為に軍用列車を破壊した。パニックに陥った政府軍は雪崩をうって投降し始める。“ゲバラは捕虜を殺さない”という噂がこの投降を加速させた。
サンタクララ陥落の報を聞いたバティスタ将軍は、恐怖に駆られ国外へ逃亡する。
1959年1月2日、民衆の大歓声に迎えられ革命軍はついに首都ハバナへ入城し新政権を樹立させた。首相に就いたカストロは若干31歳、国銀総裁のゲバラは30歳という、若者たちの政府が誕生した。
ゲバラとカストロはすぐさま新生キューバの建設にとりかかる。
まず国民全員が文字を読めるよう教育を無償化すると共に、政府軍が使っていた全ての兵舎を学校に変え、文盲一掃運動に取り組んだ。続けて医療の無料化を実現した後、少数の大地主が独占していた土地を国有化、米国資本が牛耳っていた企業の国営化などをすすめ旧勢力の激しい抵抗を受けつつも独自の国家作りに挑戦した。
国民全員の家賃を半額にするなど、過激な政策をどんどん実行していった。
キューバ革命で最も煮え湯を飲まされたのが隣国アメリカだ。
キューバ全土の土地や電力、鉄道などの巨大な利権と、ハバナ歓楽街のブラックマネーを一度に失った米国は、革命政府に憎悪をたぎらしCIAを暗躍させ、爆弾テロ、米軍傭兵部隊の上陸作戦など様々な方法でゲバラたちを倒そうとした。
1962年、米国の破壊工作にブチ切れたカストロは、ソ連(当時)の強力を得て核武装に踏み切ろうとした。マイアミの目の前に核弾頭を突きつけられてはかなわんと、米国内はパニックになった。
これが俗に言う『キューバ危機』である(最終的に米国の圧力にソ連が屈し、核配備は流れた)。
ゲバラが国立銀行総裁になって一番最初にしたことは、自分の給料を半分以下にカットすることだった。工業相になってからは自ら建設現場で働いたり、工場のラインに立って作業を手伝った。サトウキビの収穫期には農園で汗を流し、とにかく人々の中へ自ら飛び込んでいった。これは彼にとって美談でも一過性のパフォーマンスでもなく、いつもの“ごく普通の光景”であった。
仕事場には誰よりも早くきて、帰りは誰よりも遅く、労働者に交じって食事をするゲバラ。国民の間でどんどん彼の人気は高まっていった。
彼はモラルや正義を重視し、腐敗や私欲とは無縁の誇り高い男だった。
…ところが!ゲバラが本当にスゴイのはここから。
1965年、37歳になった彼は突如失踪した。彼は自身の信念によってキューバを去ったのだ。アルゼンチン人のゲバラは、キューバにおける自分の役目は終わったと判断し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かったんだ。国家の要人という地位を投げ捨て、再び過酷なゲリラ生活に帰っていった。
ゲバラはアフリカで戦い、続いて南米ボリビアへと転戦した。
そして運命の1967年10月8日、ボリビア山中でCIAのゲバラ追跡部隊に指揮されたボリビア軍に捕らえられ、その翌日、全身に弾を撃ち込まれて射殺された。捕虜として収容所へ送られるのではなく処刑されたのだ。
最期の言葉は上官の命令でゲバラに銃口を向け、ためらう兵士に叫んだ「ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ。撃て!臆病者め!」。39歳の若さだった。
※最期の言葉は、「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」という説も。
ゲバラを射殺した元兵士は後年、目の治療のために第三世界で最も高度な医療を無料で受けられるキューバを訪れている。キューバ政府は特に問題にせず、彼は無事に治療を受けることができた。
ゲバラの遺体はすぐにヘリコプターで近くの町バージェグランデまで移送され、そこで“ゲリラのリーダーが死んだ証拠”として、見せ物のように晒された。人々が見学に訪れると、ゲバラは目をしっかり見開いたまま死んでいた。その死に顔があまりに美しかった為、「まるでキリストだ」と胸で十字を切る者までいたという。
ゲバラはキューバを去る時、カストロに別れの手紙を送っていた。
『フィデル、僕は今この瞬間多くのことを思い出している。初めて君と出会った時のこと、革命戦争に誘われたこと、準備期間のあの緊張の日々のすべてを。死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時、死の現実性を突きつけられ慄然とした。後に、それは真実だと知った。真の革命であれば、勝利か死しかないのだ。
僕はキューバ革命で僕に課せられた義務の一部は果たしたと思う。だから僕は君に、同志に、そして、君の国民達に別れを告げる。僕は党指導部での地位を正式に放棄する。大臣の地位も、司令官の地位も、キューバの市民権も。今、世界の他の国々が、僕のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕には出来る。別れの時が来たのだ。
もし僕が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向うだろう、とりわけ君に。僕は新しい戦場に、君が教えてくれた信念、人々の革命精神を携えてゆこう。帝国主義があるところならどこでも戦うためにだ。永遠の勝利まで。革命か、死か』
いざ「革命博物館」へ。
博物館内は一部英語の説明もあり、革命に関する資料や写真、武器などが展示されていて、革命の様子を知ることができます。
裏手の広場には戦車と戦闘機、そして、メモリアルグランマ号があります。
これが1956年、カストロとゲバラら革命軍が、バチスタ政権を倒すためにメキシコからキューバ上陸を図った際に使ったヨット「グランマ(おばあちゃん)号」
ガラスケースに収められ、厳しい警備のもと管理されていました。
こんな小さな船で遥遥メキシコから100名にも満たないチームで2万人の兵を相手に乗り込んだのですね。
その闘志やいかに。。。。
革命博物館の後は、ゲバラ博物館もあるカバーニャ要塞とモロ要塞へ向かいました。
モロ要塞から見るハバナの町並みは最高です。
歩いて近くのカバーニャ要塞へ。
こちらがゲバラ博物館。
館内の展示は、1967年にボリビア山中で銃殺されるまでのゲバラの軌跡が分かるようになっています。
若かりし頃、アメリカに放浪したときの写真です。
医者(軍医)として活躍した当時の写真。
そして父親、夫としてのゲバラ。
写真を撮るのが好きだったゲバラ。
日本製のカメラ(確かニコン)を愛用していたとか。。。
彼はここで実際に執務を行っていました。
当時の机がそのまま残されています。
本当は触ることもできない机なのに・・・
観光客が私一人だったので、館内のお姉さんが「写真、こっそり撮ってあげるから座ってきてもいいわよ!」とナイショで撮ってくれました!
か、かんど~
窓からはオールドハバナの町並みが一望できます。
ゲバラはここからこの町並みをどんな思いで日々眺めていたのでしょう。
毎晩21:00からは150年間続けられている大砲の儀式があります。
スペイン時代の征服を着た軍人が太鼓をたたきながら現れ、一連の儀式の後に大砲に発火。
要塞と暗闇を揺さぶる「ドン」という巨大な音が響きわたりました。
儀式を堪能したあとは、またあの店へ。

彼らとはお店でいっぱいおしゃべりして、すっかり仲良くなりました。
本で読んだだけでは分からないことが、実際に訪れて、そこで生活している国民に触れて、分かることが多く、旅の醍醐味はそこにあるのかな。。。と世界一周も終盤にさしかかったこのごろ感じています。
彼らとは日本のことやキューバのことをお互いに聞きあって、交流できたおかげで、キューバの生活の実態を少し知ることができました。
食料など最低限の生活用品は政府から配給があります。それは雑誌で読んで知っていたのですが詳細を聞いてみました。
6ポンドの米、5ポンドの砂糖、20オンスの豆、ハーフポンドの油、1スープ、11オンスのコーヒー、10個の卵、11オンスのチキン、子供にはミルク、大人(46歳以上)には2本の葉巻と4箱のタバコが月に一度配給されるそうです。
生きて暮らせる最低限の食料が配給されるという社会主義国の実態。足りないものは自分達で稼いで買う。月収平均2500円の中から。
彼らは今の政府に少し不満も持っていて、国民全員が現状の生活に決して満足しているわけではないことも知りました。。。
だからといってキューバに悲壮感が漂っているかといえばそうではなく、むしろ逆。
毎日キューバ音楽の生演奏が街には流れ、人々はそれなりに自分たちの国を愛して、誇りを持って生きているようにも見えました。まず何より、彼らはいくら貧しくてもキューバを離れようとしない。
溢れんばかりのモノに囲まれ、それでもまだ何かが欲しい私たち(資本主義)の国。
買うお金がない。あっても買うモノがない、カリブの赤い島。
自らの信念に導くまま、圧制に苦しむ民衆に希望の光を与えるべく、青年たちが美しいカリブの島で「革命」という武力闘争に命まるごと飛び込んで行ったのは、わずか50年前の出来事です。
自らの国を取り戻してくれた外人部隊長の革命家の記憶はいまだキューバ国民の心にしっかりと刻まれているようでした。
物質的な貧しさの中でも、背筋を伸ばして凛と生きいてるキューバ国民を見ていると、50年前にカストロやゲバラがみた理想の国が、その道を外れることなく歩んでいるのだと・・・・
(エピローグ)
「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」
(チェ・ゲバラ)
「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、“その通りだ!”と」(チェ・ゲバラ)
フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」、ジョン・レノンには「世界で一番格好良い男」、カストロには「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評された。