「ミオ・アモーレ」 | roulan

「ミオ・アモーレ」

 今日は、平原綾香さんの「ミオ・アモーレ」「moldau」が発売されたので、感想を書いておこうと思う。
 今回のシングルは、9/2発売のアルバム「My classics!」の収録曲が先行カットされた形。
 「ミオ・アモーレ」はサルバトーレ・カルディッロの「カタリカタリ」という曲と、プッチーニのトゥーランドット「誰も寝てはならぬ」の、あの有名なメロディーを合わせて一曲にしたもの。荒川静香さんの感動的な演技を思い出すひとも多いに違いない。
 カップリングの「moldau」は言わずと知れた、スメタナの、今では「vltava」と呼ばれることが多くなった名曲。たぶん知らないひとはほとんどいないのじゃないかな。
 ふたつの曲はとてもいいコントラストを見せていて、それぞれ、お日さまsideとお月さまsideという印象を、僕は受けたよ。
 想像でしかないけれど、彼女ご本人も、太陽と月を強く意識されたのではないかと感じている。動と静、陽と陰…
 「ミオ・アモーレ」が燦々と降り注ぐ太陽の光なら、「moldau」は青々とした月の光。
 「ミオ・アモーレ」のダイナミックなバラードアレンジには、輝かしい音色の、しかしヘヴィーなギターの音色も入っていたりして、清涼感があって、カラッとした暑さの夏を思わせるような音になっている。カースケ氏のためにためたドラムも好きだ。
 丘の上から街を見下ろすような、開放感のある仕上がりで、明るい気持ちにさせてくれる。
 「moldau」は、原曲では大河の描写になっている。あの印象的な導入部の、いかにも水源といった感じから、草原の中を流れ、最後は巨大な河口にたどり着くところまで、聴くたびにまるで旅をしたような気になる曲だよね。
 あーや版では、ピアノのみの伴奏で、ずっと小さくて静かな流れを思わせる。
 原曲が水の流れの描写であるならば、あーや版は、”水と光”という印象を受けた。川の流れの水面で、きらきらと淡く反射する光というのかな。多彩なテンションがちりばめられているのも、その印象を深めているんだろうな。
 川を見ていると、濁流は別としても、流れているのがわかるのは、実は光が踊っているからだったりするでしょう?
 僕が、あーや版「moldau」に月を感じたのは、反射光という連想なのかもしれない。太陽と月の違いは、光源と反射光の違いでもあるからね。光源であることと、それを映す鏡であることは、実はお互いに無くてはならないセットだということも、あるのかもしれない。
 そういえば、二曲は歌詞も、描かれている世界はちょうど合わせ鏡のようだもの。
 あーやの歌唱は多彩で、いつも謎解きのような面白さを提供してくれるのだけど、今回「ミオ・アモーレ」を聴いていて、気づいたことがある。
 いつも「このひとの歌はなんでこんなに耳に心地よくて滑らかに聴こえるんだろう?」と思っていた。もちろん声質のこともあるんだろう。
 それに加えて。
 音楽のリズムが、円運動の連続にたとえられることがある。音楽の速度は四分音符=幾つという形で表わされるけれど、もちろん厳密には一定ではない。あるサイクルで遅くなったり速くなったりを繰り返す。
 たぶん、音程や強弱にも同じような円のサイクルがあって、彼女の歌は、その円運動に逆らわずに沿っているなぁと思ったのだった。
 以前、知り合いの歌の先生の歌を録音していてわかったことだが、上手に聴こえる歌というのは、音程がかならずしも常にジャストということではない。むしろ、外れるべきところは外れていないと気持ちが悪いということを知って、びっくりしたのだが、じゃあ、外れていいところってどこなんだというのは、謎だった。
 でも、今日「ミオ・アモーレ」を聴いていて、音程も速度や強弱とリンクしていると気づいた。考えてみれば、いや、考えるまでもなく、そりゃそうだよな。音程も速度も強弱も、別にばらばらに存在してるわけじゃなくて、それが渾然となってひとつの音楽なわけだから。
 それが、彼女の歌が、あんなにも自然に心に入ってくる理由のひとつなと思ったのだった。