蝦夷はエゾでもアイヌでもない。
蝦夷は「えみし」と読み、古代の東北地方に住んでいた朝廷に所属されない人民のことを指す。
『風の陣』の物語は聖武天皇時代の749年、奥州に黄金が発見されたことに始まる。
教科書に「蝦夷征伐の征夷大将軍」として書かれる坂上田村麻呂の父親・苅田麻呂の時代である。
「風の陣」 その物語と時代年表
737年
政権を担っていた藤原家の兄たちを天然痘で次々に失った光明皇后、
聖武天皇ヘ大仏建立を強く勧める。
黄金を欲しがる朝廷の陸奥経営は蝦夷同士を時に分断させ、様々な形で戦火をもたらす。
そんな時代、朝廷の好きなままにさせまいと蝦夷の独立を堅く胸に刻んだ二人がいた。
丸子嶋足(まるこのしまたり)と物部天鈴(もののべのてんれい)である。
嶋足はやがて朝廷の内裏に深く存在を刻み込み、天鈴は彼が都でどうあるべきかを説く。
749年
小田郡(現・宮城県涌谷町近辺)から大量の黄金産出。
物部吉風の危惧をよそに、黄金は牡鹿の牡鹿の丸子宮足(みやたり)から
陸奥守・百済慶福に流れ、
そして朝廷へ。朝廷にとって「辺境の地」でしかなかった陸奥が「宝の蔵」となった。
百済慶福、黄金調達の功により従五位上から従三位に破格の昇格し、
聖武天皇は元号を天平から天平感宝に改める。
丸子宮足の長子・嶋足、百済慶福と面会する。同席の隅において、嶋足〈15〉、天鈴(9)、
伊治鮮麻呂(これはるのあざまろ)(5)、丸子三山(8)が久しぶりに顔を合わせる。
750年
嶋足、慶福と共に都へ出仕、出世の第一歩を踏み出す。
天鈴は、嶋足が内裏で出世して陸奥守として陸奥へ帰還、
そして蝦夷の平安を守る者になるという絵図を胸に抱き、策を編んでいく。
朝廷内の権力闘争に陰から深くかかわり、嶋足の出世を図るのである。
そのためにあえて政変の火種をつくりだしもする。もちろん油を注ぐことも。
752年
陸奥守に佐伯全成(さえきのまたなり)。
753年
大初位下となっていた丸子嶋足、牡鹿姓を賜る。牡鹿嶋足に。
近衛府番長となっていた牡鹿嶋足、衛士府小尉の坂上苅田麻呂と出会い衛士府へ。
天鈴(17)、嶋足に
「力は奈良麻呂が上、策では仲麻呂。
内裏が二つに割れぬのは誰もが様子見をしているからよ……」
嶋足は根っからの武人である坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)に傾倒し、
策士の天鈴よりも苅田麻呂の存在に自らを近づけようとする。
やがて圧倒的な剣・弓・騎馬の能力が認められ位を上げていく。
天鈴は物部の財を元に金に糸目をつけず、嶋足が呆れるほどの計略を着実に実行していく。
苅田麻呂に心酔し、いちいちくそ真面目な嶋足。
蝦夷の魂のみを実践していこうとする、柔軟にして奔放な天鈴。
第一巻から第四巻までは彼らが都で翻弄されまくり、
着実に嶋足を出世さていく群像劇となる。
757年
7月、藤原仲麻呂を打倒せんとする橘奈良麻呂らの謀議が発覚
⇒奈良麻呂とその周辺の者ら処刑。陸奥守・佐伯全成も自決(橘奈良麻呂の変)
⇒仲麻呂、専権を確立し、名も藤原恵美朝臣押勝と改める。
押勝、陸奥守に息子の朝猟を任命。
橘諸兄の子、奈良麻呂が仲麻呂を排除しようとして失脚したこの変の鎮圧に大いに貢献した嶋足だが、
その性格からあえて功績を無為にする。
嶋足を近いうちにも陸奥守にともくろむ天鈴は落胆する。
759年
陸奥国に桃生城、出羽国に雄勝城が完成する。
奈良麻呂を打倒、醇仁天皇を擁して独裁政権を確立した藤原仲麻呂は
自ら藤原恵美朝臣押勝と改名して藤原氏をも遠ざけて独尊的立場を確立。
しかし後ろ盾になっていた光明皇太后(藤原氏の出)の死により権勢を失っていく。
やがて孝謙上皇と対立し、天鈴はこの権力闘争をあおりたてる。
そして自らと同じ物部氏の出の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を女帝孝謙上皇の側に近づけていく。
764年
孝謙太上天皇の信任を得た道鏡、恵美押勝から権力奪取(恵美押勝の乱)。
嶋足、この乱における功績により従七位上から従四位下へ破格の11階昇進。
孝謙太上天皇⇒称徳天皇に。
押勝のクーデターが失敗、嶋足は坂上苅田麻呂とともに乱鎮圧の功で破格の昇進を遂げるが、
狡猾な道鏡は彼を実質的には閑職となる役目につけ、力を削ぐ。
苅田麻呂の側で平穏な都を眺める嶋足に、天鈴の心中は晴れない。
天鈴は奥州へ向かう視線を分散させるため、道鏡にも揺さぶりをかけようとする。
765年
道鏡、法王に。
弟の浄人(ひよひと)を従二位大納言に。
道鏡は恵美押勝討伐を果たした後、女帝、孝謙上皇の寵愛の元で政の怪物となっていく。
もはや天鈴らの手にも負えない。
法王という官位は未曾有。天皇と同じ所得さえ与えられるのだった。
767年
伊治城完成。
768年
9月、大和守石川名足(いしかわのなたり)、陸奥鎮守将軍を兼ね、769年、陸奥守に。
769年
5月、宇佐八幡宮神託事件。
宇佐八幡宮神託とは、天皇の位を得ようとした道鏡の野望を阻止したものだった。
「道鏡を天位につかしめば天下太平ならん」
宇佐八幡宮からこの神託を賜った清廉潔白の漢、和気清麻呂により孝謙上皇に奏上される。
「わが国は君臣の分定まれり、道鏡は悖逆(はいぎやく)無道、神器を望むをもって神震怒し、
その祈をきかず。天つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を続(つ)げよ」
清麻呂はこの奏上の後、道鏡に大隅に流されたが、天皇は道鏡を天位につけることを断念。
のちに天皇が没すると道鏡も失脚していった。
770年
8月、蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかにめのきみうくはう)らが任を放棄、
一族共々糠部へ帰還。嶋足、多賀城に派遣される。
8月28日 称徳天皇、崩御。道鏡、下野薬師寺別当に左遷、772年5月没。
9月 坂上苅田麻呂、陸奥鎮守将軍に。(半年で帰都)
10月 天智天皇の孫・白壁王、皇太子に(後に光仁天皇)。
道鏡の失脚に乗じて復権をもくろむ藤原一族だったが、
新天皇、光仁天皇は藤原氏を牽制する派閥人事を進める。
772年
9月、大伴駿河麻呂、陸奥按察使に。
774年
7月23日、陸奥按察使兼鎮守将軍となった大伴駿河麻呂に蝦夷征討命が下る。
25日、海道蝦夷、桃生城を攻撃。
中央政権は金鉱支配を大事とはするものの、陸奥は辺境の地であり、
度々の蝦夷の攻撃(国家側の輩の理不尽な扱いに対する反抗)に対しても、
多賀城に国府を設けて、細々と橋頭堡を置くくらいで統治には程遠く、
中央における権力争いにも翻弄され、陸奥にまではなかなか勢力を伸ばせないでいた。
そんな時代の中で、嶋足、天鈴、苅田麻呂は三者それぞれの立場から、
徐々に立ち位置がわかれていく。
苅田麻呂は根っからの武人、堅物だ。
賢き帝とそれを支える有能な政治家による中央集権の構築こそ何よりの大事で、
国家の平和と繁栄さえ実現なれば、陸奥も平和と繁栄を獲得できると思っている。
嶋足は都については苅田麻呂と同じ思考であるが、蝦夷の期待を一身に受けている自覚もある。
しかし天鈴ほどには陸奥ばかりを中心とする思考には遠い。
天鈴は中央政権なんてどうでもいい。
陸奥の独立のみを目指し、時機の見極めさえつけば朝廷との闘争だって辞さない。
しかし嶋足はいまいち煮え切らない。
という状況で四巻までが進み、第五巻となるが、
ここではこの三人はほとんど登場しない。
代わりに主役となるのが、嶋足や天鈴よりもさらに若い伊治鮮麻呂(これはるのあざまろ)だ。
彼は嶋足同様、朝廷側に立場を置いていたが、精神は天鈴よりもまっすぐな心で
蝦夷社会の独立を見据えていた。
そんな彼の前に立ちふさがったのが史上最悪の陸奥守・紀広純(きのひろずみ)だった。
775年
7月 河内守紀広純、陸奥鎮守副将軍を兼任。
776年
出羽国が志波村の蝦夷に苦戦。 陸奥国の軍士3000人が胆沢を攻撃。
777年
1月25日、大伴真綱、陸奥介に。
5月27日、紀広純、陸奥守に。兼陸奥按察使⇒778年、鎮守府将軍に。
778年
4月 伊治公鮮麻呂(これはるのきみあざまろ)、伊佐西古(いさせこ)と配下200を従え
出羽国志和村に布陣。蝦夷による蝦夷征伐。
6月 鮮麻呂、外従五位下を授位。
道嶋大楯、兄の三山より牡鹿郡大領の地位を譲られる。
前任の石川名足も朝廷の目の届かない多賀城で好き放題に私腹を肥やしていたが、
新しく陸奥守となった紀広純はそれ以上だった。
陸奥按察使と鎮守府将軍をも兼務し、兄の三山に代わって牡鹿大領となった道嶋大楯を通し、
黄金を貯め込み、ばかりならまだしも腹の奥底にあるのは蝦夷の殲滅で、
そのために軍備を増強、大楯を使って蝦夷たちの反乱を煽動し、蝦夷征討の勅命を待っていた。
様々に広純に便利がられた道嶋大楯は嶋足の腹違いの弟だが、広純の思惑とあらば、
殲滅戦開始のための口実さえ作り、挑発を画策する、まさに蝦夷の裏切者だ。
そんな二人についに、待ちに待った勅が下される。
780年
朝廷、胆沢(現・水沢市内)に築城(覚べつ城)を計画。
<紀広純の読み上げた勅書>
狼は子供でも荒々しい心を持ち恩義を顧みない。同様に蝦夷も、あえて山川の険しいことを恃み、
しばしば辺境を侵犯している。
3000の兵を発して卑しい蝦夷の残党を刈り取り、もって敗残兵を滅ぼしてしまうように。
胆沢と言えば、鮮麻呂が大領として入っている伊治城よりもさらに北方の、
まさに蝦夷の居住地の入り口であり、これはまさに蝦夷へのこれまでないほどの挑発だ。
そして挑発は侮蔑の上に成り立っていた。
都の人間からすればどこまでも「蝦夷は獣」なのだと、勅は言い切っているのだ。
いつか必ずという意志を持って我慢に我慢を重ねていた伊治鮮麻呂の忍耐が、
ここに至って遂に崩壊する。
しかし一人の暴発に終っては、何の意味もない。
蝦夷の大同団結を決定づける形で、ことは為されなければならない。
団結の要になるとしたら胆沢の阿久斗(あくと)しかいない。
さらには阿久斗の息子、阿弖流為の存在も頼もしく、鮮麻呂には映っていた。
覚べつ城の立地選定のために伊治城に紀広純と道嶋大楯が訪れるという
形で好機は早々に訪れた。多賀城から引き連れてくる兵もたった200だという。
阿久斗の元に鮮麻呂は使者を出す。鮮麻呂を多賀城に魂を売った裏切者と見ていた
胆沢の兵の前で使者は命を張って阿久斗のみとの面会を求める。
その心胆に応える阿久斗、面会に応じる。
初めは信じ切れなかった阿弖流為もやがて鮮麻呂の覚悟を承知、
自らが援護軍の将を務めると父・阿久斗に宣言する。
かくして、
伊治城内でことを為す鮮麻呂のために、多賀城の兵たちを外へおびき出す役割を
阿弖流為は引き受ける。
780年
3月22日 朝廷側に身を置き時機を待っていた伊治城主・伊治公鮮麻呂、
胆沢の阿弖流為を中心とする蝦夷軍の援護を得て、
伊治城に紀広純と道嶋大楯の首を挙げる。
200と聞かされていた多賀城の兵は実際は120しか来なかった。
あっさり阿弖流為軍の誘いにおびき出される多賀城軍。
城内では広純が鮮麻呂の前で命乞いを始める。
こんなやつはとっとと多賀城を去らせる!と大楯を指さす広純。
その言葉に直接反応する大楯。
……………
あっけないほどに、広純と大楯は息絶えた。
阿弖流為の視界に映る、城門の前に掲げられた二人の首。
そして鮮麻呂は……永遠の風に。