ハタチの時に大学を中退した俺は、大学在学中にアルバイトとして入ったレストランで働いたのを皮切りにいくつもの職場を転々とした。その中で出会った人々は、女性だったら自分の恋愛の対象となる年ぐあいの人々と世間話の相手にしかならないおばさんとに分けられたが、男は三つに分類された。
まず、友達になれる相手。これは同年代のほとんど同じ立場にある男。次がおじさん。上から俺を見下ろしている男。残るは、俺よりちょっと上の世代の血走った目をした男たち。
あくまでおおまかな分類で、友達になれる年代の男たちにはもちろん性格的にとても友達になれない人物だっていたし、おじさんの見下ろす目にも何種類かの目つきがあった。しかし血走った目つきのおにいいさんだけは俺にとってはあくまで血走った目つきの男でしかなかった。苦手だったのだ。やり手の気配をぷんぷん漂わせている男たちに気おされるような目で見られると、無視したり、反対の意見を言ってみたり。敵だった、と言ってもいい。
世間というものを知らずにのほほんと中学生やら高校生やら大学生をやってきた人間の単純な分類だった。第一、女性に対してはまったくもって無礼としか言いようがない。男にしても女にしても、俺には、その人を見る、という視点がなかった。
そんな俺の目を見開かせてくれる人物が現れたのはある職場に飽き飽きして新しい働き場所を求めて面接に行った時だった。
小企業の社長の目は静かに遠くを見ている目だった。押し付けるものがほとんどなく、俺を落ち着かせた。男がいる、と俺は思った。
仕事に関して、何かを強要する人じゃなった。黙って残業を受け入れさせるというタイプの社長だった。仕事の進め方というのを、今にして思えば、教えてくれた人だった。しかし俺はその職場で冗長した。社長の寡黙が俺の基準からすると度を越したものに、徐々に思えてきたからだった。
彼の寡黙は弱々しさから来ているのだ。そんな結論がいつしか確固たるものとなり、俺はその会社の仕事をごっそり持ち出して独立した。
独立して作った微小会社は二年半でダメにした。そして今はまったく畑違いの場所で日銭を稼いでいる。ほとんどフリーと言ってもいいような仕事だ。勤務中はまったくひとりなのである。
そんな今になって思うのは、自分の愚かさだ。仕事を指図してくる人間に鷹揚な暖かさを求めていたのだ。すなわち、父性。仕事とはまったくかけ離れた場所に、しかも年下の友人にそれを見出した今となってはつくづくそう思う。
父性とは、特上な感情のたまものなのだ。そんなものを、無意識にとは言え職場に求めた俺はとんでもない勘違い野郎だったのだ。なんともまあ長い勘違いの歴史を刻んできたものだ。