「あいつら自分を何だと思ってんだろうな!?」
と張りのある少々でかい声でオヤジは言った。
「あいつら……、拉致の家族や兄弟さあ……」
拉致の家族や兄弟、と言われてまず頭に浮かんだのは北朝鮮に拉致された人たちの家族だった。だが北朝鮮拉致問題の関係家族をこんな言葉で表現する人間がいるとも思えない。なんたってあの人たちは一つの事件の被害者であり、その家族なのだ。まさかそんな人たちを「あいつら」呼ばわりはあるまい。
さらには、である。時期的に〈拉致の家族や兄弟〉と言えば今現在マスコミに大露出中の人たちがいる。そうだ、このオヤジはそっちのことについて話しだしたのだ。そうに違いない。話の流れとしちゃ突飛だが、そんなのはタクシーの中では日常茶飯事だ。うむ。話がこんがらがっちゃ車内の雰囲気が悪くなる。一応確認しとこう。
「拉致の家族や兄弟って、イラクで捕まった人たちの…すか?」
すると、ちょっと苛立ちを抑えたような声でオヤジは答えた。
「いや、北朝鮮のさ」
話の流れってもんがあるだろう、そんな苛立ちを、まあタクシーのウンちゃんだからな、といった蔑んだ憐れみでどうにか包み込んだんである。それまで、お客さんたるこのオヤジと俺は〈北朝鮮で列車爆破〉というニュースについて話していたのだ。
北朝鮮に拉致された人たちの家族について、「あいつら自分を何だと思ってんだろうな」だって――?
やあな予感がした。まさかこのオヤジ、と思った。とんでもないブァカなんじゃないだろうか。俺、キレちまわないだろうか。
しかし俺のそんな危惧をよそに、予感は的中のフィールドへと確実に歩み寄っていった。
あいつらは傲慢。北朝鮮のことじゃ武器問題が先決。今は国民の同情を得られてるからいいようなもんだがそのうち呆れられるぞ。(当人はすでに呆れているらしい)
こんな時! ああ、こんな時、「そーっすよねえ! ほんと傲慢っすよねえ、あの人の物言い!」とか適当な言葉でお上手に切り抜けられるのがいわゆる〈できたタクシー乗務員〉なんだろうなあ。そう思った。しかし、そんなことを思いつつも、頭じゃ充分にわかっていても〈自分にとって嘘じゃない範疇〉でしか物が言えない俺である。
「確かに、あの蓮池透さん、すか? いつでも強気ですよねえ」
何とかかんとか感情を抑え込んでやっとこんなことを口にした。
ところがと言うか、やはりと言うか、この言葉がオヤジにとってはジャンプ台となった。いや……違うんだろう。もうこういうオヤジはハナッから言いたいことを決めてるのだ。俺が何を言ったところで何も変わらないのだ。そしてこういう人にとっては、タクシーの車内という場所は何でもかんでも言いたい放題の場所なのだ。
「あの兄貴かあ……。どういう時期に誰に向かって物言ってんだかさ。外務省だのにうまくあしらわれてんのわかってねえんだよ」
「ああ……、そうかもしんないすねえ」
「だいたい、チョロチョロしてっから拉致されんだろうが」
ハ……?
信じがたかった。
まともな人間の言葉じゃない。そう思った。
自分の家族が同じ目にあってみろ! そんな言葉が頭のてっぺんから飛び出そうだった。
キレていた。俺はキレていた。降りてくださいぐらい言える、そんな状態にしっかり身も心もはまり込んでいた。
ところが、である。ハンドルを握る手はブルブル震えていない。われながら不思議なほど落ち着いている。
チョロチョロ発言が俺にそんな落ち着きを与えていたのだ。
こいつはブァカだ。どうしようもないバカだ。人間じゃない。
見事にそう思わせてくれた、いわばオヤジの〈逆勝利〉だった。
俺の〈逆完敗〉である。
俺は黙った。黙り込んだ。
しばしの沈黙のあと、オヤジはもう北朝鮮の「き」の字も口にしなかった。話はタクシー業界のことに移った。
俺は「そーっすよねえ!」のウンちゃんと化した。
意味があるんだな。
と、そう思った。
こういう奴らがしっかり世の中にはいるのだ。
そんなことを再確認させてくれる、タクシーとはそういう商売なのだ。