最近ちょっと脱線して精神世界の本ばかり読んでいる。脱線などと言うとそれらの本を紹介してくれた人物に失礼なのだが、これまでの我が読書歴からすると、突然の脱線事故!的に唐突だったのでこんなふうに表現するのが正しい。(これぐらいで怒るような人じゃないし)
その本の代表的なのが「拙者の本棚&CD棚」に書いた「神との対話」なのだが、そっから大いに(いつもの読書癖から)どんどんオーラやらインドのサイババ やらの方向へと脱線していって、そしたら今年ずっと「タッキーはねえだろ!イモ!」などと思いつつも見続けているNHK大河ドラマ「義経」でドッカ~ンと気づかされることとなった。
義経はイエス・キリストなのだ。
だって……
一の谷の戦いでの崖の上からの奇襲、空を見上げながら突然思いつく次の作戦、弁慶をはじめとする郎党達の心酔ぶり、盲信=義経に彼らが見るオーラ……どう考えたって尋常の人間ではない。
頼朝はそんな彼が危険人物に見えたのだ。とても自分如きが扱いきれる相手ではないと悟ったのだ。だから……。
義経はもちろんイエスやサイババのように生まれながらの神じゃなかった。鞍馬寺で天狗に鍛えられ、「人間以上」になってしまったのだ。そして彼の不幸は、自らがそんな存在であるということを知ることができなかったということだ。サイババは現代に生き続ける場所(時代)を与えられているけれども、義経という神には、日本の中世という時代、生きる場所は与えられなかった。
しかし……源氏という血統、藤原経清を葬った源頼義に始まって義経を死地に追いやる頼朝まで、考えてみると義経以外には結局ろくな人物が出ていないよなあ。