潮来の由来  

 

 
潮来 どうしても読めません。
実はこの地方方言で「潮」のことを「いた」と言っていたそ
うです。
そもそも「いたこ」の始まりは「常盤風土記」と言う奈良時
代に書かれた本が有るのですが。その中に出てくる地名だそ
うです。本の中では大和朝廷から派遣された人たちと、それ
に逆らって従わない人達の間で戦いがあり、朝廷側の勢力が
反勢力を「痛く殺した」ことから伊多久の郷と言ったのだそ
うです。
それが板来と言う文字になり長い間使われてきたようです。
伊多久を板久としたのは、風土記を作るように朝廷から国々
に命令が下ったときに、漢字二文字を使い、それも好ましい
文字を使うようにと指示が有ったことのようです。
「痛く殺す」の「痛く」は「甚く」と「甚」という文字も使
い共に「はなはだしく」と言う意味らしい。
江戸時代、水戸黄門で有名な徳川光圀が「潮」のことを「い
た」と言っていたことに関心を示して 「板久」を現在使わ
れている「潮来」というように文字を変えたそうです。
昔は、霞ヶ浦に海がつながっていて、塩水が入ってきていた
らしい。
現在は、水門が有り塩水は入ってこないで、淡水湖になって
います。
「潮来」は自然の環境の変化にも耐え、人間の動乱にも耐え
ながら逞しく生き抜いてきたのだと感じています。

原始・古代潮来の地方に人々が 定住するようになったのは、
縄文時代(9000年~ 7000年前)からと言われ、狭間
貝塚をはじめ多くの遺跡が有ります。弥生時代の三世紀~六
世紀までは 多くの古墳が建造され 市内にも浅間塚や多く
の古墳が有ります。
大和朝廷が急速に進展して、大化の改新後地方行政区分とし
て、群・郷・里が設けられ、17の郷から構成されていた。
中世に入り、鎌倉・室町時代を通して、潮来地方は郡内で最
大勢力島崎氏の支配下にあり城跡や菩提寺当時の面影をしの
ぶことが出来る。
1330年北条高塒寄進した銅鐘(重要文化財)銘文から風光
明媚(フウコウメイビ)で水上交通として繁栄したそうです。
近世に入り、江戸時代の潮来は、水戸藩と麻生藩二藩により
江戸初期から明治の廃藩まで続きます。
潮来は佐原と並ぶ水運の要所で、東北から江戸に搬送される 
米・海産物・木材その他も、潮来を経由して運ばれ、最盛期
には年間400隻くらい出入りしていたと言われています。
水戸藩が御用金制度を始めた、元禄十三年に、潮来の商人の
献金額が藩全体の三分の一をしめて。
潮来が水運の基地として栄えた時期には、遊郭や引出茶屋が
軒を連ねる賑わいぶりで、江戸方面から多くの文人墨客が来
訪して数々の作品を残しています。
その頃牛堀海岸も「風待ち港」として、潮来同様に繁栄しま
した。江戸時代には、新田開発によって広大な農地と村落が
形成されます。
対岸の十六島をはじめ、幕府領・水戸藩開発により、水郷の
穀藏地帯が造成されたのです。
幕末期の潮来は、水戸藩の郷校や潮来陣屋が設置された。

江戸幕府が倒れて、明治新政府が誕生し、明治四年旧水戸藩
領の村は水戸県、麻生藩領の村は麻生県となりました。
明治八年茨木県・新治県と千葉県の一部が統合され、新しい
茨木県の中に組み入れられました。
明治二十二年市制町村制に先立って、全国に町村の大合併が
行われた。
その後、日清戦争・日露戦争の時代を経て、日本社会は大変
化を遂げて、戦後の急速な社会・経済の発展の中で、昭和
30年に再び全国的な町村の大合弁が実施されました。まも
なく鹿島臨海工業造成が始まり、潮来はそのベットタウンと
して、工業地帯の発展を続け工業団地の造成を実現しました。
平成十一年、国は地方自治の確立をはかるため「地方分権推
進計画」を発表し、県も翌十二年十二月に「茨木県市町村合
弁推進要網」を示した。平成十三年四月一日牛堀町が潮来に
編入合弁して 「潮来市」誕生となりました。

 

 

 

 

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