ニコニコBOX      安藤久乃委員

 

 

・市川会長・藤澤副会長・浅井幹事

満徳寺資料館館長 高木侃様、本日の卓話宜しくお願い致します。

 

・市川富夫会長

縁切り寺満徳寺館長 高木侃様 先週は満徳寺の詳細な説明を有難う御座いました。今日は笑える卓話 楽しみにしていました。宜しくお願いを致します。

高木恵理子夫人、いつも有難うございます。

 

・浅井純次幹事

先日RLIセミナーに参加させていただきました。ロータリーを再認識しました。とても有意義な1日でした。あと3回楽しみです。

 

・清水利夫会員

高木侃先生には、先週、満徳寺を御案内頂き、ありがとうございました。本日はまた、卓話宜しくお願いします。

 

・井桁憲治会員

高木侃様、本日はお忙しい処お越し下さりありがとうございます。先週も私共にも分かり易く内容の深いレクチャーを伺い感銘を憶えました。今日もよろしくお願い致します。

 

・吉田 繁会員

高木侃様には、二週に渡りお忙しい中お世話になりますが、本日の卓話大変楽しみにしておりました。宜しくお願い致します。

 

・岩崎孝男会員

先週の職場訪問は、天候にも恵まれ大勢のご参加をいただき、無事終了することが出来有難う御座いました。

本日は、職場訪問で満徳寺参拝の折に大変お世話になりました資料館館長の高木様にはお忙しい中をおいでいただき有難う御座います。卓話を楽しみにしております。

 

・野中弘之会員

高木様ようこそおいで下さいました。先週満徳寺の由来や、私の好きな寺の一つ東慶寺についてのお話楽しく拝聴致しました。本日の卓話が楽しみです。

 

・細川末廣会員

先週の職場訪問例会では満徳寺資料館高木館長様には大変お世話になりました。再度、卓話ありがとうございます。

 

・安藤久乃会員

今日は、高木館長の卓話楽しみにしておりました。宜しくお願い致します。

 

 

 

-----平成30年09月19日(水) 最高気温 27.4℃

第1962回例会、高木 侃氏卓話

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三くだり半に見る別れの美学      高木 侃
(2018年9月19日於熊谷東ロータリークラブ)

I 女にとつて江戸時代は暗黒の時代か:夫は一方的に理由もなく妻を離婚できたか
『追い出し離婚」か「飛び出し離婚」か
◆美学一その1
夫は離婚原因を妻の所為にはしなかつた:「我等勝手につき」


◆美学―その2
夫は離縁状を渡した妻から領収書(返リー札)をもらつた


◆美学―その3
夫が不法口不埒を働いたときには、あらかじめ妻に離縁状を渡した(先渡し離縁状)


◆美学一その4
馴染んだ「妾」と手切れするときも離縁状が必要だつた。


◆美学一その5
東上州の未婚女性は男との別れに縁切り証文を渡した(執心切れ一札)

離婚と二くだり半
女房と相談をして妻を去り/もめるはず妻と女房が同居する
去るときは九十両ではすまぬなり/百のうち十両ぬけた嫁をとり
去状を書くと入婿おん出され/去状へ無筆は鎌と椀を書き
世界に二つの縁切寺一東慶寺と満徳寺
縁なき衆生を済度する松ケ岡/出雲にて結び鎌倉にてほどき
わっちがも行くとぶつさと松ケ岡/すは鎌倉の大事ぞと仲人来る
成(いぬ)をすて申(さる)のかつ込む松ケ岡/去状を取るうち年が三つふけ


Ⅱ 離婚のときに金銭・財産はどう扱われたのか
◆美学一その6:「持参財産返還の原則」
秋風を防ぐ持参の金屏風/去状を書くうち質を受けにやり


◆美学一その71「離婚請求者支払い義務の原則」
逃げて来てつまるものかと里の母


Ⅲ 江戸の女房観
「女房と畳は新しい方がいい」Or「女房と鍋釜は古いほどよい」・「女房にほれてお家繁盛」
南無女房乳を飲ませに化けて来い


Ⅳ 川柳は時代をうつす鑑
追い出されましたと母へそつと言ひ(1762年)/出されたを出て来たにする里の母(1771年)
さつたさつたといふけれどにげた也(1777年)
主の縁一世減らして相続し/去状をやるとふだんのいとこなり
又叔母というかとしかる後の妻/後家の気は仏の弟いやな事
姑の日向ばつこは内をむき/姑は嫁の死に水とる気なり

 

 

 

-----平成30年09月19日(水) 最高気温 27.4℃

第1961回例会、会長の時間

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SUBARUは中島飛行機の技術を継承し現在になった。
中島飛行機を継承する会社は富士重工で有り、その一部はプ
リンス自動車であるがこれはすでに日産の一部として存在する
ので、正当な継承者は現在のSUBARUであるといわれる。
その、血筋の正当性を示すように日本国内唯一のボクサーエ
ンジンの製造メーカーである。
陸軍・海軍大臣のもと、気球及び飛行機の研究の目的に
1909 年(明治42年)「臨時軍用気球会」が、軍民両方の
委員で組織された。明治17 年群馬県尾島町の農家の出身で
苦学の末、海軍機関学校を卒業した中島知久平機関少将が御
用掛として赴任した。
この頃、海軍自身も1912 年(大正元年)に研究会とは別
に初めて独自に海軍航空研究委員会を発足させて、事務所を
田ノ浦の横須賀推雷団に設置、水上飛行機場を追浜海岸に建
設する。
中島少将は1913 年5 月横須賀海軍飛行機の造修工場長監
督官に任命される。
1916 年欧州へ視察を通じ中島知久平は「経済的に貧しい日
本の国防は航空機中心にすべきであり世界の水準に追い付く
には、民間航空産業を起こさねばならない」と意を固め、健
康上の理由にして海軍に休職願を出し、肥料問屋石川茂平の
援助を受けて、群馬県尾島町の生家近くに、蚕小屋を借り、
ここに一人だけの「飛行機研究所」の看板をあげ、ここから
中島飛行機の歴史が始まった。
中島飛行機はおりしも第一次大戦後のインフレで有り、各
地で米騒動が起こっており、「札束だぶつく・お米は上がる 
なんでも上がる、あがらないぞい、中島飛行機」などと地元
太田の人々に揶揄される惨状であったものの、様々な苦難を
乗り越え一流の航空機メーカーとして次第に君臨するように
なる。
中島知久平は海軍の退役軍人であったが、航空機メーカーの
中島は、陸海軍両方に対して様々な機体を製造していた。特
に機体の量産能力は定評があり一万機以上の生産された、零
式艦上戦闘機は開発元である三菱重工の生産は約四割ほどで
他はすべて中島飛行機の製造であった。特に昭和20 年製造
数はその年の47%を占め終戦までその生産能力はダントツ

であったそうである。


日本のジエット機は完成していた。
ジエットエンジンは、昭和17 年にドイツから潜水艦で資料
を持ち帰り 昭和20 年6 月に完成するが。終戦になり一度
も使われずに終わったそうである。

 

 

 

-----平成30年09月12日(水) 最高気温 23.9℃