「真の終戦とミドリ十字使節団」


 終戦と言うと、1945年8月15日の玉音放送のイメー
ジがあると思います。しかし、真の戦争終結に到る手続きは
翌8月16日から始まったのです。玉音放送はポツダム宣言
の受諾を国民に知らせる為のものであり、その後に解決しな
くてはならない重大問題が存在したのです。この話は、当時
極秘任務であり、終戦後しばらくGHQからも、日本政府か
らも発表されなかった、壮絶な話です。
 終戦まぢか、国内では来攻する敵に対して徹底的交戦が叫
ばれていました。もはやいかなる命令権も喪失しているので、
反乱する勢力はすべての命令をも拒否する勢いで、特に厚木
海軍飛行場の小園安名大佐はその先頭に立ち、部隊の独立を
宣言し飛行場全体が戦闘体制に入っていました。特攻隊は天
皇の軍隊で「絶対に降伏なし」とするビラを全国に撒き徹底
抗戦の構えでありました。
 マッカーサーは相当な抵抗が予想される中、70万人を超
える兵力を日本に派遣するブラックリスト作戦を考えていた
のですが、先ずマニラ市に降伏文書に調印するため、降伏軍
使を派遣するよう日本政府に命令してきました。
 その際、派遣する飛行機は全体を白く塗り、日の丸ではな
く緑色の十字を書けという指示でした。これは、戦争の時に
降伏する使節団などが乗るもので、この飛行機には攻撃をし
ない事になっているそうです。
 使節団人選は困難を極めました。降伏軍使にはなりたくな
い、命の保証もない中で、陸軍参謀次長河辺虎四郎中将、海
軍主席副官横山一郎少将、外務省岡崎勝男に決定しました。
その他随行するメンバーの中で、パイロットの人選が後に運
命を決します。一行の中でただ一人飛行艇パイロット経験を
持つ寺井中佐が飛行計画を立案し、1番機機長は寺井中佐の
たっての希望で海軍随一のベテラン操縦者須藤特務(予備)
大尉に決まりました。須藤大尉は、水兵から身を起こし、昭
和5年の単独飛行から約15年で飛行時間1万時間以上の経
験を誇り、開戦から幾多の空に戦い、生き残ってきた英雄で
ありました。飛行機は2機で、出発は木更津飛行場となりま
した。軍使機とわかると反乱軍に撃墜される恐れがあった為、
海面スレスレに太陽に向かってジグザグ飛行をしたりして、
米軍のいる沖縄の伊江島飛行場へ飛んだのです。
 そのころ、北方では8月18日未明ソ連軍が千島列島に進攻
を開始し、占守島(しゅむしゅとう)では地上戦が起こりまし
た。さらに8月20日には南樺太に艦砲射撃を加えてきました。
火事場泥棒のような行為でありました。使節団の対応が遅れる
と、北海道はソ連に分割支配されることになってしまう一大事
でした。一日も早く天皇の委任状を託し、進駐軍を受け入れね
ばならないと言う、一刻の猶予もない状況でした。  
 マニラに向かう軍使機が沖縄・伊江島到着時、二番機は無
事着陸したが、一番機はフラップが下がらず緊急事態となり
ます。日本機の異常行動が見られると撃墜される危険があっ
たが、須藤大尉は抜群の操縦技術で難を逃れます。この時の
フラップが下がらなかったのは、故障ではなさそうで、この
ミッションの謎の一つであります。着陸を見守った米兵達は、
仲間を殺された日本兵に対し憎しみの念を持つ者がたくさん
いた事は容易に想像がつきます。マッカーサーは、伊江島の
兵士達に日本兵には絶対に手を出さいよう、命令を出してい
たそうです。
 マニラでの会議では進駐の予定が8月26日厚木進駐の予定
と決まりましたが、厚木には小園率いる反乱軍が占拠していた
為、先ずはその鎮圧をしなければなりません。説得にあたった
のは、高松宮であり天皇の勅使として説得に赴きました。そして、
厚木基地は解放されます。
 帰路にあって再び不可解な事が起こります。二番機が故障
し、一番機だけが夜間飛行で帰国する事態となりました。紀
伊半島上空でハプニングが起こります。エンジンが空転し始め
ブレーキの油圧がゼロになります。増設タンクが空になり燃料
切れを起こしたのです。この原因は、米国側は燃料をガロンで
測り日本側はキロだと認識していたという、単純な理由による
ものだったと表向きはなっています。しかし、ベテランパイロッ
トが乗る機に、通常は考えられない事態だったのです。後に、
使節団の中に1人だけ身元がはっきりしない人物がいた事が判
明しています。日本の降伏に反対する、軍部のスパイであった
可能性があるそうで、それでフラップの故障や燃料切れという
不可解な事が起こったかもしれないそうです。
 話を戻しますが、燃料切れでは墜落をしてしまいます。そ
の様な事が起これば、進駐軍との本土決戦がおこり、北方で
はソ連軍が北海道に侵攻し分割統治になってしまいます。渥
美半島を過ぎて平坦な海岸線が続く海岸に不時着を試みるこ
とになりました。須藤機長は一万時間を超える名パイロット
でありましたが、月明りだけの海岸線に一陸式爆撃機を不時
着させる事は至難の業です。須藤機長に、日本の運命を託す
事になります。8月20日午後11時55分、月明かりの下
で天竜川河口の鮫島海岸に不時着が強行されました。まさに
奇跡の不時着であり全員無事だったのも、須藤大尉であった
からこそできた不時着だったのです。
 時刻は、8 月21 日になっていました。鮫島集落の地元警
防団に発見され、機体に日の丸はなく敵機だと思われたよう
です。しかし胸に金モールをつけた軍使らが、一刻も早く東
京に帰らねばならない事を告げると、ただ事ではないと察し
た村の人は、協力を惜しまず農協に電話がある事を教えて、
一番近い浜松の飛行場に連絡をとったそうです。軍使たちを
トラックに乗せて浜松飛行場に向かうと、偶然にも重爆撃機・
飛竜が修理のため駐機していました。これに乗り調布飛行場
に向うことができたのです。数々の困難が幾度となく訪れま
すが、ここでも難を逃れます。きっと何かの力が、使節団を
守ってくれたのでしょう。
 この使節団の成功がなければ、無血進駐は達成されず、ま
た多くの血が流れ、100 万人近い米兵が予測できない程の
長期駐留となり、北海道は分割統治されていたのです。私は、
ふと江戸城の無血開城を思い出しました。負けを認めた時の
最後の潔さと、国民をこれ以上苦しめるわけにはいかないと
言う気持ちがあったのではないかと思います。
 米軍の進駐は、8 月26 日に先遣隊が厚木飛行場に到着を
します。ギリギリのタイミングで、マッカーサーは8 月30
日厚木飛行場に到着しました。タラップを降りてくる勇姿を、
何度もやりなおしてカメラマンに撮影させたそうです。この
無血進駐は、軍政ではなく日本政府を通して占領行政を行う
ことができたと言う大きな意味を持っています。9 月2 日、
東京湾に停泊するミズーリ艦上で降伏文書への調印式が行わ
れました。列席者の中に軍使として緑十字機に搭乗した岡崎
勝男と横山一郎がいました。二人は、どの様な気持ちでこの
調印式に臨んでいたのでしょう!私は、きっと誇りをもって
艦上に立っていたのだと思ってなりません。

 

 

 

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