会長の時間   小川 智 会長

 

諸説あり!ペリー来航と開国

 

 

 皆さんが知っている、ペリー来航により江戸幕府がやむなく
開国したという説は、現在は間違っていると言われています。
当時中国がアヘン戦争で大敗をきし、アジアの諸国は欧米列
強の脅威にさらされていました。当時の日本もそのことは分かっ
ていて、脅威を感じていたのは確かです。しかし、ペリーが来
航し幕府も庶民も慄いて、アメリカの軍事力に屈しやむなく開
国したという定説は、あくまでもペリー側の史料によるもので、
実は日本側にも詳細な史料が残っています。双方の史料を紐解
くことで、真実が明らかになってくるのです。
 

諸説1:「幕府も庶民もペリー来航に全くうろたえていなかった。」
 幕府はペリー来航の約1年前から、来航する情報を知ってい
ました。貿易を認められているオランダは、アメリカの日本進
出を警戒しており、アメリカが通商を望んでいる、ペリーとい
う司令官が大船団を率いてくるなど、詳細な情報を得ていたの
です。これは「別段風説書」という記録に残っています。ペリー
来航前から、当時の老中阿部正弘は、島津播や水戸藩と協力
し、長崎に「長崎海軍伝習所」を作り、近代的な戦いを整えて
いました。また、身分に関係なく、下級武士の勝海舟やジョン
万次郎を起用するなど、事前の準備を進めていたのです。また、
庶民は黒船来航を楽しんでいました。これは当時の瓦版から多
くの情報を得ることができます。例えば、黒船はめちゃ格好い
いとか、アメリカの首都はワシントンであるとか庶民が普通に
しっていたのです。そして、弁当を持って見物に行ったり、船
頭が特別料金をとって黒船の近くまで見物に行ったりしてまし
た。面白いのは、老中の安部が武士だけでなく庶民にまで黒
船撃退法を募ったところ、何百という意見が寄せられました。
その意見は、ビジネスにまでつなげようという商魂たくましい
ものでした。遊女屋は、爆弾作戦といって酒でいい気分になっ
たところで、爆弾を爆発させてマグロ包丁でやっつける。成功
したら、店のそばに堀を増やしてほしいとか、材木屋が江戸湾
に船が近づけないように多量の木材を浮かべる方法。起用さ
れた際は、当方の材木を買ってくださいなど、ビジネスチャン
スにまでなっていた史料も残っています。


諸説2:ペリー来航により、江戸幕府は開国していなかった。
 当時ペリーと交渉にあたったのは、林 復斎という学者で、ペ
リー交渉をすべて論破したのです。先ずペリーは人道的なこと
から切り出しました。漂流民の保護、まき・水・食料の提供、
下田函館の開港です。しかし、江戸幕府は漂流民の保護などは、
その10年以上も前からお触れを出していました。下田函館の
開港を通商と結びつけようとすると、林は人道的なことを言っ
ておきながら、何故通商に話が及ぶのか、大統領からの書簡
にはその様なことは書いてないなど、ペリーの要求をことごと
くはねのけ、軍事力をかさに脅されると、戦争になっても全く
構わないと言い返したのです。結局、元からお触れを出してい
た人道的な保護と、下田函館はあくまでも寄港地であり、そこ
での通商は認めない条件で、日米和親条約を結んだのが事実
です。日本は開国していなかったのです。


諸説3:幕府の威信をかけて、食文化でペリーに対抗した。
 熾烈な交渉が進むなか、アメリカの蒸気機関、通信などの
科学力には圧倒されたのは事実です。幕府は何とかペリーに立
ち向かうため、威信をかけて食文化で対抗しました。当時江戸
で一番の高級割烹料理屋「百川」に、アメリカ人数百人分の
食事を当時の2千両、現在では1億円という額で依頼したので
す。しかし、ペリー達アメリカ人には繊細な日本食は口に合わず、
ほとんど食べなかったそうです。本膳料理は、昼食で30品目
ありましたが肉は2品だけでした。逆に、ペリー達がふるまっ
たステーキを、武士たちは美味しく頂いたそうです。日本人の
舌がいかに肥えていたかが分かります。
 この様に、私たちが今まで知っていたぺりー来航とは、実際
かけ離れていたのが事実のようです。歴史は勝者が作る!アメ
リカの史料だけで日本の歴史教育がされてしまう。今後も、歴
史の検証をすすめ、正しい日本の歴史を学びなおしたいと感じ
ました。

 

 

 

 

-----平成30年05月16日(水) 最高気温 31.4℃