「ロータリーの創生」

 

 ロータリーにとって、1905年2月23日木曜日が重要な日である事をご存知でしょうか?

 さて、1905年シカゴはどんな社会だったのでしょう?禁酒法、商業の爆発的発展、社会不安、政治の腐敗、宗教における原理主義の台頭、これらが巨大なうずの様に、ぐるぐると混ざりあい、混沌としていたシカゴでした。無数の酒場に売春宿、通りにはスリが横行し、悪臭が漂い、商売は騙しあいが当然の如く行われていました。

 他に目を向けると、2年前の1903年にはライト兄弟が初飛行に成功、1905年にはレーニンが亡命先からロシアへ戻り、ピカソはスペインからパリへ移住、ロアルド・アムンゼンが北極に磁力がある事を発見し、アインシュタインが相対性理論を発表した時期でもありました。

 では話をロータリーに戻しましょう。1905年2月23日木曜は、ロータリー創設者4人がダウンタウン・シカゴのディアボーンストリートにある、ユニティビルの711号で初めての会合を開いた日です。まだ正式な例会ではありません。

4人は改めて自己紹介をしました。

そのときポールは、都市で真の友人のいない空虚さ、欲得ずくの商売態度、私生活や仕事で信頼できる人を見つける自信のなさなどを感じるままに話し、どのクラブとも違うクラブの結成を提案しました。彼曰く、「私たちが皆かつて田舎町で味わった、相互協力と打ち解けた親睦と言う非常に単純な構想がクラブの基本である。」と!

 そして会員を増やす上で、各職業もしくは業種で1人の会員を推薦するとし、メンバーが人柄の誠実さを保証できるような人物だけを推薦するとしたのです。これが、1業種1人の始まりです。こうしてこのクラブは必然的に後援会となり、相互利益な取引だけではなく、男同士で互いに親睦を深められるグループとなる。1業種に1人に限られるため、町一番の男性を選ぶことができる。多くの取引をもたらしてくれそうなクラブへ、入会を拒む人などいまいという考えでした。

 例えば、ポールはスーツをハイラムの店で新調し、ハイラムは石炭をシルベスターから買い、ガスターバスはポールに法律業務を依頼するといった具合である。当時の社会状況からすれば、まだ奉仕という理念は生まれていない状況だったのです。実際、1906年1月に採択された最初の定款・細則では、ロータリーの綱領は以下の2つだけでした。

1.本クラブ会員の事業上の利益の増大

2.通常社交クラブに付随する親睦、及びその他の特に必要と思われる事項の推進。

 この2つです。しかし、クラブが奉仕を目的と採択するはるか前に、各会員はそれぞれの時間、才能、金銭を、恵まれない人々の為に惜しみなく捧げていた事実があります。クラブは回を増すごとに大きくなり、様々な意見が出てくるようになります。今後、永続させていくためにはどうしたら良いのか?この問題に関して、特許弁護士だったドナルド・カーターは、クラブ細則の改定案を提出しました。その理由は以下の通りです。「徹底的に利己的な団体は、長続きしません。ロータリークラブとして生き残り、繁栄する事を期待するなら、何らかの存在を正当化するような事をしなければなりません。私たちは、公共奉仕を実施しなければなりません。」

 そして、綱領の3つ目が誕生します。それは、「シカゴ市の最大の利益を推進し、シカゴ市民として誇りと忠誠心を市民の間に広める。

 奉仕団代として、正しくスタートを切った訳です。

さて、次回は名前の由縁と、当時会場がどの様に決まったのか、お話させて頂きます。

 

 

 

 

 

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