※久しぶりに秋葉原に行った。ホコテン復活してるんだね。ホコテンが無くなったとか再開したとか、色々あったのはなんとなく知っていたが今現在どうなっているのかは全く知らなかった

 

 

さてさて、
「本当に頭のいい人は誰にでも分かる言葉で説明する」
の命題について。

全く同じ言葉でなくとも、類する文意の言葉を目にしたことがある人は多いのではないだろうか?

“本当に”という修飾語がわざわざついていることで、客観的な評価が出来る人が述べた真理のような言葉として受け入れてしまいそうだが、果たして本当にそうなのか掘り下げていきたい。

結論から書くと、ある面でこの言葉は正しいが、シチュエーションは限定される。

・説明する側が説明を聴く人に真に理解をしてもらうことを目的にしていること
・説明にかけるられる時間が無制限なこと

これらの条件が揃った時に初めて上述の命題は真となる。

何かの説明を誰かにする場合、基本的には相手に理解をしてもらうことを目的(または理想)にすると思うが、複数人に説明をする場合、前提知識の少ない人や理解力に乏しい人も説明対象にいることもあるだろう。

そういった人も含めて真に理解を得られる説明をする場合、まずは前提知識についてから説明を始め、言葉をかみ砕き(前回記事で書いた語彙力は発揮できない)、必要に応じて同じ説明を何度も繰り返しながら進行をしていかなければならない。

説明をする時間に制限が無ければこのような対応も可能ではあるが、
説明をする機会が社会的な立場や役割に因る場合(例えば学校の授業や会社での業務説明など)、時間の制限が往々にしてあり、最大公約数的な理解を得られる説明をせざるを得ない(あるいはそれが是)というシチュエーションもあるだろう。

その制約は説明する側の頭の良さに因果はなく、社会的な事情の話なのである。

つまり説明者の頭が良くても、意図的に、一定の前提知識を有している人向けの説明をすることがある、ということから冒頭の命題は限定的なものだということが分かる。

業務で使うパソコンの操作説明をする際に「これから操作説明をするパソコンとは、パーソナルコンピューターの略で…」なんてことから言ってらんねーよね、ってことです。

プライベートな関係の中での説明の場面では、社会的な事情が無くなるため、説明側がなるべく聴く側に寄り添った説明になりやすいことは自明の理だが、あくまで関係性に因るため説明側が聞き手の知見や語彙レベルを計ろうとする意図があった場合はこの限りではない。

前回の記事も含めての総括なのだけど、一般的に難しい言葉も、発話者、聞き手、双方が理解していれば精度高く効率的な相互理解が得られる言葉であって、そもそも言葉の成り立ちとか考えると言葉は一定の必要性があって生まれたもののはずで(逆に言えば必要性が薄れてくれば使用されなくなり、いずれ死語となる)難しいかどうかは、仕様頻度や字面からの意味の想像のし易さとか画数の多さから画一的に評されているだけに過ぎず、また使用頻度においてはコミュニティに依存する面もあり、個人的に、本当の意味で難しい言葉なんてものは無いと思っている。

いまいちまとまっていない総括だな。

「本当に頭のいい人は誰にでも分かる言葉で説明する」

→説明側は足切りのために一定の知識レベルや語彙力を前提にした言葉使いをすることがある
→っていうか本当に頭のいい人、って何?嘘の頭のいい人もいるの?
→言葉は知っているに越したことは無い。 分からない言葉に出会ったら、難しい言葉、ではなく、知らないコミュニティの言葉と捉え調べてみよう

ただし、極一部、自身でも理解しきれていない一般的に難しいと評される言葉を多用して頭がいい、語彙に長ける、と評されたい輩がいることも理解している。特殊事例だな。

ただしそんな人は少数なので、やはり冒頭に挙げた命題は条件付きの話だろう。