青少年を問題視する流行の背景には、社会の不透明 さに耐えられない、弱ちょっろい年配の姿が見えてきます。
透明な社会と不透明 な社会という概念が、重要なポイントになります。さまざまなタイプの人間がさまざまな生き方をしていて、何がよい生き方であるかというのは決められない。ただし、さまざまな生き方をしている人間が、他者を侵害しないで、それぞれの生き方を追求できる社会であればよいではないか、というのが先進国 型のリベラル な社会です。つまり、社会が不透明 であることを肯定する社会です。
そもそも「善い生き方」などは存在しない、というその不透明 さに耐えることができない人間が、自分の異質の存在や、さまざまな生き方や自分が理解できない生き方を追及している存在、また、自分が、これが「善い生き方」だと考えている生き方に合致していない存在を排除してしまおうと考えてしまうことこそが本当は危険な社会なのではないか。
たとえば、茶髪でピアスをした高校生がいるとか、援助交際 をする女子高生 がいる、というだけで、一気に社会や人間の不透明 さを感じて、その不透明 さを「もたらした」者に対して憎悪と被害感を抱いてしまうのだ。
援助交際 をする女子高生 自体は、社会に被害を及ぼすわけでもなく、誰かに危害を加えるわけでもない。女子高生 を保護するべきかどうかとか、なぜその女子高生 が援助交際 をするに至ったのかという問題とは別に、ある種の憎しみが社会に蔓延しているのを、援助交際 に対する憎しみから見て取ることができる。
青少年を憎む者たちが固執する「透明な社会」というのはどういうものなのかというと、たとえば、古代ユダヤ人 の社会では、女性が夫以外の男性と関係を持つと、みんなで石をぶつけて殺します。聖書 にはそのような場面が出てきます。それでは石を投げている人というのはいったい、どういう憎しみや、情熱でもって石を投げているのか、というと、別に「俺の女房をとられてからこの野郎殺してやる」という怒りではありません。そういう意味ではなく、「社会全体(コスモス )が汚される」と感じるのです。社会が汚されて、不透明 になっていくのは耐え難い。それで「社会を汚したお前を、石をぶつけて殺す」のです。そうして、「透明な社会」を守るためには、ある種、強迫神経症 の人が手を洗い続けるように「汚らわしいやつ」の存在を見つけては殺し、見つけては殺し、と続けて掃除していく必要があるのです。
しかし、そのような不気味な存在、汚らわしい存在が世の中からいなくなれば、もう石をぶつけたりすることがなくなるか、というと、決してそのような状態は訪れません。絶えず新しい不気味さが現れるのだ。つまり、それを感じる側が抱える不透明 さに対する不安のほうに本源的な問題があるのだ。もしかしたら、不透明 さに対する不安ゆえに、新たな不気味さを作り上げてしまうのかもしれない。「ひとつの透明なコスモス 」として考える限り、他者が他者であるかぎり存在する不気味なものから、コスモス を防衛し続ける事が必要となるのだ。
透明な社会とは、他者が他者を尊重しない社会となってしまうのだ。
社会が不透明 であることを前提としたリベラル な社会では、次のようなタイプの人間には都合が悪い社会である。たとえば、自分を中心とした勢力の場に他人を巻き込んだりコントロールしたりして、強大なパワーを感じたい人がいるとします。こういう権勢欲の人たちは、自分が苦労して牛耳った集団のノリの中で浮き上がったまま堂々としている個人を見ると攻撃せずにはいられません。あるいは、人間はかくあるべきだという共通善に関する思い込みをもっていて、その信念に反する人々が存在するのを目にすること自体が耐え難いという人がいます。こういう人は非モラル 的な行動を目にすると被害感と憎悪でいっぱいになります。
多種多様な相容れない生き方のスタイルの人たちが、「なかよく」しなくても共存できるような社会の秩序原理がリベラル な社会であり、「存在を許す」という社会の形成をしていかなければならない。