2007年12月の新聞記事から考えてみた。
2008年の北京オリンピック開催に伴い、産業の急速な発展により、大気汚染が問題視されている。日本の環境対策チームが北京の大気の汚染状態を調査した結果、「東京の4倍空気が汚い」と指摘していた。確かに、北京市街の映像がテレビで放映されるたびに、鈍色の空、自動車の渋滞、あちらこちらでの建設ラッシュを見れば、誰しもがわかることであるのではないか。
しかしである。1960年代、折りしも東京オリンピックがアジアで初めて開催された頃、東京も同じような状態ではなかったのか。建設ラッシュ、モータリゼーション、今よりも緩い環境基準を考えれば、45年前にはそう変わらないのではないだろうか。正確に調査したわけではないので、あまりいい加減なことはいえないが、環境問題が人類の命題となった今日であるからこそ、現在の北京の状況を批判するわけで、タイムマシンで当時の東京に環境調査に行ったとしたら、どう報告したであろう。
京都議定書には、アメリカと今では「世界の工場」のいわれる中国が批准していない。人口13億、世界総人口の1/5の国が二酸化炭素の排出量を規制せずして、果たしてどこまで地球温暖化を阻止できるかわからないが、経済発展にひた走る中国に発展を抑制するに等しい排出量の削減は、先進国の横暴であると捕えられても仕方がない。自分達だけ先に発展し(二酸化炭素も大量に排出してきたであろう)今になって、地球環境のために・・・と大義を掲げても発展途上国は納得できることではない。現代版国家間不平等起源論である。ルソーの人間不平等起源論にこう記されている。「ある土地をめぐって、誰かがこの土地は私のものであると発したことが、そもそもの不平等のはじまりだ」と。持つ者と持たざる者が不平等の根源であると考え理論を展開したが、自分達は以前は同じ事をしていたのにも関わらず、これからはやってはいけませんと言われれば、まさに不平等だと言わざるを得ない。「地球をめぐって、これからは環境のために二酸化炭素の排出量を減らしましょう」と発展を抑制させられることを迫られてしまう不平等に、日本を含めた先進国に嫌気が差す。
地球環境を考えなくていいとは言っていない。ただ、私は経済発展と地球環境の保全という相反する命題に対して、発展途上国への対応があまりにも横暴であることに、いささか疑問に感じるのである。不平等、格差といった差別は地球環境問題からも考察することができるのではないか。中国の環境汚染は確かに酷い。世界レベルで環境対策をしなければならないことは、もっともなことであるのだが、「お前たちは先に経済的に豊かになったくせに、俺たちが発展しようとしているのを、止める権利はない」という主張に、先に豊かになった日本はどう考えるのか。
単純に中国は汚い、卑しい、と非難できないのではないか。皆さんはどう感じますか。