人は耐え難い悲しみや苦しみ・喪失感を味わうと、それを「怒り」に変換して生きることがある。
中堂さん。(井浦新)
彼の「喪失感」は、
愛する人が命を奪われるという形で、突然降りかかってきた。
そればかりか、容疑者として疑われるという…
怒りに換えて
自分を奮い立たせることでしか生きてこられなかったんだろう…。
そうでもしなければ、生きる意味を見出せなかったのかもしれない。
怒りをルーツに生きていくことは、実は怒りをもたらした対象に人生の主導権を渡しているようなものなのだ。
でも
たぶん
そうするしかなかった。
だからこそ、
ドラマの終盤、
亡き恋人の父親からの
「あなたは生きてください」という一言に泣けた。
怒りから解放されて
自分の人生を生きてください。
簡単に手放せるような生易しいことではないとわかっているけど。
犯人の高瀬も、おそらく根底には自分を虐待した母に対する「怒り」がある。
しかし、彼のしたことは、正当化の余地など一切ない。「しつけ」の名の下に、親の歪みを子どもが引き継いで、さらに増幅させていった。
だからこそ、
証言台の三澄ミコトは、高瀬に向かって「かわいそうな人」という言葉を放ったのだ。
それは
一家心中という、親の身勝手な選択に対する怒りを経験したミコトだからこそ言える・言う権利のある言葉だったと思う。
ミコトにとって、
「不自然死」として、期せずして遺体となり、解剖台に乗ることになった人の死因を明らかにすることは、不本意だったであろう人生の終わりを「きちんと送る」という、おくりびとのような意味があるのかもしれない。