仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)

 

 

7月上旬にユネスコ世界遺産委員会で審査され、正式に世界文化遺産に決まる仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は、今でこそ、厳重に管理されて立ち入りできないのですが、江戸時代末期までは、後円部の墳頂を除けば自由に出入りできたのです。

 

 

古墳は堺の庶民の憩いの場所で、春にはワラビを採ったり花見をしたりと大いににぎわいました。古墳は、江戸末期までは草山で木は少なかったそうです。古墳に上ると、西には大阪湾から淡路島、東には金剛葛城の山並みが一望できました。いわば「展望自然パーク」だったのです。

 

 

そんな気持ちのよい「公園」に集って、おじさんたちが考えるのはやはり「一杯やろか」。墳丘で飲めや歌えや、きょうも見晴らしがええなあと、でも、酒をのむと世の常でけんかも起きたので、堺奉行所から「酒を飲んでけんかをするな」とお触れも出た。1853年には酒宴が厳禁となりました。

 

「古墳入るべからず」となるのは、幕末に尊王思想が高まった後です。1852年には後円部にあった勤番所が堤に移され、1864年には前方部の正面に拝所も設けられました。しかし、それでも昭和の初年ごろまでは比較的寛容だったようで、悪童たちがお濠で泳いだり、埴輪片を集めて投げ合ったりしていました。遺跡マニアの侵入もよくあって、仁徳陵の遺物をもっている市民はけっこういるのです。

 

 

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それにしても、前方後円墳は奇妙な形ですね。日本特有の古墳の形です。円と台形がくっついたような形です。鍵穴のようでもあり、壺のようでもあり、ホタテのようでもあり、テルテル坊主のようでもあります。

 

 

でもそれは上から見てわかることで、下からはわかりません。百舌鳥・古市古墳群の周辺を散策した人たちから、古墳の形が見えないから面白くないという声があがります。確かに、古墳は下から見ると濠の向こうに森があるばかりで、「環濠里山」といったところです。飛行機のない時代は、古墳の正確な形を誰も知らなかったのだと思います。私たちが思い浮かべる前方後円墳の姿は上空数百メートルで真上から見た構図であって、周辺の山に登っても、あんな風には見えないのです。

 

 

思うに、前方後円墳は、その始まりにおいては、ナスカの地上絵のように、「天」に見せるのが目的だったのではないでしょうか。単に地上で権力を見せつけるためなら、もっと高くしようとしたでしょう。高さより形や面積にこだわったのは、古墳を見せる対象が上方、つまり「天」にあったからだと思います。古代人にとって「天」は神の在所ですから、神様に見つけてもらいやすい墓の形として前方後円墳が考え出されたのだと想像します。形の意味については諸説あるので深入りしませんが、まず、「天」に対して目立つという点に着目したいと思います。

 

 

 

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前方後円墳は、畿内だけではなく日本全国に造営され、全部で5000か所前後あると言われています。大きさで言うとツートップは、百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵古墳=大仙(だいせん)古墳(全長436m)、古市古墳群の応神天皇陵古墳=誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(同425m)です。地方には中型・小型がたくさんある。大きさこそ違え、寸法の取り方はよく似ていて、相似形といっていいものもあります。空からみると、土地に押した紋章のようで、それが列島に点在しているわけです。

 

 応神天皇陵古墳拝所

 

「紋章」は何を意味するのでしょうか。同じものを造るということは同質性の証しではないでしょうか。前方後円墳は、同盟や支配・被支配の関係を「天」に認証してもらうための判子だったのだと思います。

 

 

同じものがあるから同じ国、大きいものがあるのが都で、小さいものがあるのは服属地。古墳は王権内の各地域の同質性のしるしです。聖武天皇は、奈良に巨大な東大寺を建て、地方に国分寺と国分尼寺を造らせました。これも同様の発想です。中央に大きなものを作って地方に同じものを作らせる。聖武天皇の300年前、仏教をまだ知らなかったヤマト王権は、天の力によって「鎮護国家」を図ろうとしたのです。

 

 

フランスの思想家、ロラン・バルトは、日本の社会、文化の特徴として「中心がないこと」を論じました。ヤマト王権も豪族の連合体で、確たる中心がなかった。だから、建造物によって中心を象徴化した。それが、前方後円墳だったのだと思います。日本人の心性に根差した古代の統治策です。聖武天皇も天災や疫病で求心力がなくなった時に鎮護国家策を強化しました。

 

 

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完成当時の仁徳天皇陵古墳予想図

 

 

古墳が巨大化したのは仁徳天皇陵や応神天皇陵が作られた5世紀です。卑弥呼の墓とされる箸墓古墳も全長280mしかありませんから、いかに膨張したのかがわかります。先に挙げた、地方との関係のほかにもうひとつ、古墳が大きくなる理由がありました。それは、対外的なものです。

 

 

4世紀、5世紀の朝鮮半島は激動の時代でした。高句麗、新羅、百済の三国が覇権を争い、ヤマト王権による朝鮮半島への侵攻がありました。中国大陸も混迷を深めていました。

 

 

あるとき、前方後円墳を見ていて気付いた人がいたのです。「この威容はなかなかのもの。待てよ、前方後円墳は使えるぞ!」と。何に使うのか。海路を来た人を威圧するのです。

 

 

弔うのでもなく、天に見せるのでもない。外来の客に見せつけるという新しい用途が前方後円墳につけ加わりました。海沿いや海から遡る川沿いに巨大墳墓が作られるようになります。百舌鳥古墳群は今でこそ内陸ですが、当時は海際にありました。瀬戸内海を西へ渡ってくると目に飛び込んでくるのが巨大古墳群だったのです。使節や渡来人は肝をつぶしたでしょう。「こんな強大な国と、けんかをするのはやばい」と感じたはずです。

 

 

百舌鳥古墳群は海際に連なっていました。葺石された前方後円墳は原野の緑に中あって、陽光を浴びて白く光っていました。白光の帯は心因性の城壁となりました。百舌鳥古墳群は大阪湾の「長城」だったのです。ヤマト王権は、めいっぱいツッパリました。

 

 

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堺市役所から見た仁徳天皇陵古墳

 

 

下から見えにくい前方後円墳。見える場所があります。堺市役所の展望台は有名ですが、奈良に穴場があります。王寺町の明神山(273.6㍍)です。ここの展望デッキは「世界遺産展望台」と言ってもいいほどで、百舌鳥・古市古墳群のほか、法隆寺、奈良の伽藍群、紀伊山地も望めて、世界遺産4点盛りの絶景を堪能できます。ぜひお運びください。