秋の奈良はにぎわいますが、今年は例年にも増してにぎやかです。再建された興福寺中金堂が人を集めています。

昨日7日から落慶法要が始まりました。

 

 

10日には比叡山延暦寺の森川宏映天台座主が執り行う法要があります。これには意外感がありました。両寺の間には平安期以来の長い間の遺恨があるからです。京都と奈良、寺社勢力の雄として対立していました。

 

 

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特に仲が悪かったのが平安期です。平家物語にある船岡山事件は有名です。

 

 

1165年、二条天皇が崩御して京都・船岡山に葬られます。よりによってその葬送の場で暴れたのが興福寺と延暦寺の僧兵でした。御陵の周辺には寺々が額を掛けるのが慣例になっていました。順番は東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺です。ところが延暦寺が興福寺の前に割り込んでしまった。怒った興福寺の荒法師たちは太刀で延暦寺の額を切り落として叩き割った。



さあ大変。延暦寺の僧兵が大挙して山を下り、興福寺の末寺の清水寺を一棟残らず焼き払ってしまいました。

 

 

興福寺はどうかと言えば、1173年、延暦寺の末寺の多武峰を焼いています。お互い、自分たちの縄張りの地にある敵の末寺を攻撃したのです。

 

 

平安末期は、興福寺、延暦寺とも軍事組織の色彩が強くて、やることなすこと荒っぽかった。朝廷への強訴(ごうそ)はバイオレンスそのものでした。自分たちの要求を通すためには手段を選ばない。物理的暴力だけでも恐いのに、それに心理的な暴力が加わる。矢が当たるだけじゃない。バチも当たるぞと脅かす。

 

 

延暦寺の僧兵は神輿を担いで示威運動しました。夜の町で松明を燃やして不気味な僧兵が練り歩く。町衆は肝をつぶしました。最後は御所に乱入して、略奪、放火、殺傷、やりたい放題でした。興福寺の僧兵は神木を奉じて入洛し御所に殺到しました。乱暴狼藉は延暦寺と変わるところはありません。

 

 

 
興福寺の僧兵の強訴(天狗草紙・模本)

 

 

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そもそも両寺はなんで仲が悪くなったのでしょうか。興福寺の宗派である法相宗の僧徳一と最澄が教義の優劣を巡って9世紀前半に論争したのがきっかけでした。

 

 

これは「三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)」と呼ばれます。難しい論争なのでだいぶんはしょりますが、悟りの資質が人間にどう備わっているかということが争点でした。悟りの世界へ赴く乗り物は、最澄は一つ(一乗)といい、徳一は三つ(三乗)と主張しました。最澄の考え方は「人間みな同じ」、徳一の方は「みんなちがって、みんないい」という発想です。

 

 

勝ったも負けたもない論争ですが、あまり紳士的ではなかったために禍根を残しました。最澄は徳一のことを粗末なものを食べる人=「麁食者(そじきしゃ)」と蔑み、徳一は最澄のことを「顛狂人」「愚夫」と中傷しました。

 

 

そこまで熱くなったのは、それぞれに批判を座視できない事情があったからです。平安仏教界において法相宗は保守勢力の代表、天台宗は新興勢力でした。当時、仏教は国の統制下にあって僧になるのは許可制でした。天台宗はやっとのことで宗派として認められ、僧侶の割り当ても得ましたが、最澄にしてみれば南都の旧宗派に対する優位性を喧伝し続ける必要がありました。一方の徳一にとっては、天台宗は法相宗の立場を危うくする「邪宗」と映ったのでしょう。

 

 

「宗教戦争は日本にはない」とイメージしている人も多いと思います。しかし、織田信長と石山本願寺の戦いのように「権力対宗教」の戦争はけっこうありますし、「宗教対宗教」の争いも、飛鳥時代の物部氏と蘇我氏のように数件あって、法相・天台紛争もその一つだと考えます。イスラム教のシーア派・スンニ派ほどではないにせよ、日本でも宗派対立が歴史の火種になっていたのです。

 

 

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最後に中金堂の仏像を紹介します。

釈迦如来像は仮金堂の本尊を遷座しました。金箔を貼り直しています。これには1955年の金閣寺再建で活躍した箔押師(はくおしし)が協力したそうです。脇侍は薬王菩薩と薬上菩薩(重文)です。

 

 

この周囲を固める四天王に注目してください。仮金堂にあった四天王は、もともと運慶の父・康慶が手掛けた南円堂の諸仏であることがわかって、南円堂と交代しました。南円堂の不空羂索観音は「久しぶりやなあ」と声を掛けたことでしょう。



では南円堂にあった四天王はどこから来たのでしょう。それは北円堂です。つまり運慶作の可能性が高い。本当は北円堂に戻すのがいいのですが、そうなると北円堂の四天王を中金堂に移すことになります。北円堂の四天王は平安初期の作で大安寺にあったものです。サイズが小さくて中金堂にはふさわしくない。そこで北円堂はそのままになったのです。

 

 

運慶の四天王(国宝)  北円堂⇒南円堂⇒中金堂

康慶の四天王(重文)  南円堂⇒仮金堂⇒南円堂

 

 

国宝館では、落慶を記念した特別展が開かれていて、根津美術館蔵の帝釈天と興福寺蔵の梵天蔵が「再会」しています。いずれも定慶作。帝釈天は廃仏毀釈で寺を離れていました。


興福寺は融和と再会の秋です。