櫟野寺十一面観音

 

 

甲賀と言えば、アニメのサスケを思い出します。サスケは甲賀流忍者でした。

忍者を連想するこの地は、仏像の里でもあります。

 

 

連休中、初めて櫟野寺(らくやじ)を訪ねました。この寺には、いずれも重要文化財に指定されている平安期の仏像20点があります。2016年には東京国立博物館で「平安の秘仏~櫟野寺の大観音とみほとけたち」が開かれました。東大寺や興福寺といった大寺ではありません。小さな寺の特別展がトーハクで開かれるのは珍しいことでしょう。

 

なぜ甲賀にこれほど仏像があるのでしょうか。不思議ですね。甲賀というのは、名前はメジャーですが関西人にとっても場所がよくわからないところ。琵琶湖から南に下った内陸部にあります。「滋賀やったっけ」「ちゃうで三重やで」「いや奈良ちゃうか」。そのぐらいの認識の人がけっこう多い。そういう地味(失礼)な場所にかつて栄華を誇った寺院があった。

 

 櫟野寺本堂

 
 

 

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実は、甲賀と日本仏教は深いえにしがあるのです。仏教が日本に伝わってまもなく、すでに仏像を保有していた豪族がいた。日本書記によると、百済から来た鹿深臣(こうかのおみ)が弥勒の石像一体を持っていて、これを583年に蘇我馬子にあげた。「鹿深」は「甲賀」の由来ともいわれます。

そして、東大寺の大仏は、そもそも聖武天皇が743年10月、甲賀の紫香楽で発願したものです。しばらくは甲賀寺で大仏の造営計画が進められ、仏像の中枠である体骨柱(たいこつちゅう)まで組み立てられたのでした。しかし、火災や地震が相次いで聖武天皇は45年5月に平城京に戻ってしまいます。天皇の気が変わらなければ、大仏は甲賀にあった。タラレバの話ですが、甲賀は日本の仏都になっていかもしれなかったのです。

 

 

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大仏建立に尽くし東大寺の初代別当になった良弁は近江の百済氏の出身との説があります。百済寺は櫟野寺から少し離れた北方にあります。また、櫟野寺は、平安期に比叡山根本中堂の用材を求めて甲賀にやってきた最澄が、櫟(いちい)の木に十一面観音を刻んだのが始まりという寺伝があります。最澄も近江の渡来系豪族、三津首氏の出身です。

 

 

鹿深臣、良弁、最澄といずれも渡来系。甲賀を含め近江には渡来系コネクションがあったのだと思います。鹿深臣は6世紀ですが、7世紀、663年の白村江の戦いの後も多くの百済人が移り住んだ。彼らも末裔も仏教の伝道者となった。

 

 

渡来系コネクションは政権にも影響力があった。櫟野寺の寺伝では、坂上田村麻呂は最澄の観音に祈願して鈴鹿山の鬼退治をして、七堂伽藍を建てたといいます。寺伝と照らし合わせると、都の造営を担当する木工頭(こだくみのかみ)だった田村麻呂が、最澄と同様、用材を探しにこの地に来た可能性があります。

 

 

当時の甲賀には宮殿や仏像に使う巨木がたくさんあった。紫香楽で大仏建立が始まった時に平城京から移り住んだ工人が、木についてよく調べていたのかもしれません。

 

 

さらに、甲賀の地形にも注目したい。甲賀は鈴鹿を越えて東国に至る交通の要衝でありました。低い山が屏風のように土地を区切って里を隠したことから軍事的要害でもありました。戦国時代には小豪族が割拠した時期もあります。そして、山中でゲリラ的に生き残る術が発展しました。

 

 

コネクション、木、地形それらがあいまって人と物資を交流させ、甲賀の仏教を盛り立てたのだと思います。それらは後の時代に忍術を生む要因でもあったことでしょう。

 

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今回、櫟野寺を訪れて最も心をひかれたのは法隆寺・百済観音のように細身の観音菩薩立像です。腕が失われた欠け仏ですが、目じりのさがった優しい尊顔が心にしみました。

 

 

薬師如来坐像

http://www.museum.or.jp

 

地蔵菩薩坐像

 
 

 

このほか、丈六の大きな薬師如来像や、端正でシャープ、快慶風にも通じる地蔵菩薩も魅力でした。収蔵庫では住職の若い奥さんが熱心に説明してくれました。気さくな方で、うちのかみさんとずいぶん話し込んでいました。

 

 

最澄が刻んだとされる本尊十一面観音坐像は10月6日から12月9日まで特別公開されます。